静岡連隊寫真集


【書名】静岡連隊寫真集
【著者】柳田 芙美緒
【発行日】昭和三十七年
img228.jpg(1709130 byte)


独立歩兵第十三連隊とは、泉第五三一六部隊の事である。 初代連隊長久野村桃代。二代、石黒岩太。三代、瀬戸口栄蔵。四代、安尾正綱。五代、齋藤二郎。

 この部隊は、比較的静岡連隊には遠縁の如くに考えられていたが、この玉砕部隊も、静岡にゆかりをもつ人が多く、静岡県出身の戦死者が二千九百五十名もいた。憮然として想いをその人達の上に走せ乍ら、正坐して弔魂の記を綴ろうとする。

満州熱河省、承徳にいた独立混成二十六旅団に、山海関北方地区へ進撃の命が下ったのは、丁度その頃であった。この旅団は、関東、北陸、九州混成のつわものどもであったが、一気に前面の敵軍を撃破、内蒙古を席巻、眼前に展けた万里の長城の砲座に立って、望郷の感慨を謳ういとまもなく、やがて緩遠省主席、伝作儀将軍の率いる大軍と対決、これを黄河の西へ追い立てゝ、このあたり一帯にひと時の平和をもたらした殊勲部隊であった。 これ以来、戦闘一線部隊の師団編成の戦列に加えられ、独立歩兵連隊として新生した。 深秋は黄塵を捲いて過ぎ去り、やがて凍りつく冬将軍が駆け足でやって来る。 初代連隊長久野村桃代大佐は、宮中に参内して一りゅうの軍旗と勅語を授けられ、部隊将兵の意気正に天を衝くの慨があった。

 内蒙古連合自治政府の誕生と同時に、治安をこれに託し、連隊本部の位置を厚和特別市に転じた。この頃迄、この部隊の徴集兵は九州久留米師団管下となっていたが、昭和十四年から名古屋師団の担当となり、静岡連隊がその補充に任じ、いよゝ郷土部隊としての戦列に加わり、悲劇の開巻となる。

 零下数十度の結氷した黄河を渡り、オルドスの砂漠を走り、作戦回数も戦闘範囲も万里の長城に平行して、広漠と拡がって行った。兄貴連隊である静岡歩兵三十四連隊は、蜒々たる揚子江の流れを遡り、破竹の勢いで華やかな戦勝街道を突走り、或は、弟連隊とも云える静岡新設二三〇連隊は、昭和十四年誕生、早々南支へ足跡の一歩を印して間もなく、大英帝国の牙城、香港に世紀の武名を轟かし、転じてジャワ作戦に凱歌を挙げるなど、郷土部隊は華やかな戦果を挙げた。その蔭で、じっと黄塵のかなたにあって、黄河南進作戦、浙かん作戦、或は河北省警備作戦、更に昭和十九年春の河南作戦など、足でたどり着き、手を持って積上げていく様な、地味で困難な大陸作戦を繰返していたのが泉部隊である。

 真新しい綿の塊りをひきちぎって投飛ばしたような白雲が、南へゝと流れていた。暑さの真盛り、十九年七月初めのことである。突如として、運命の対米作戦参加の出動命令が下ったのである。河南作戦展開中の全部隊を集め、七月十三日、慌しく厚和地区に集結を完了、赭顔、′髯面を竝べて二日後には軍装検査、その翌日には、最後の軍旗祭を挙行。同月二十二日、連隊全員が列車で満支国境を南下、一路朝鮮釜山港に急行した。この頃、日本軍を覆った敗雲は、色濃く戦線を包み、本土では主要郡市のことゞくが、B二十九の猛爆に曝され、戦争の結末の不安におのゝいている最中であった。戦局挽回の夢を託し、国運を担う決戦兵団の重責を果たすべく立上ったのであるが、既に大局的に戦況は不利で、掛け声と精兵の忠誠だけではどうしようもなくなっていた。暗い運命の海図が展かれた。

 部隊は、一旦、九州伊万里湾に入港、こゝで三十数隻の船団に編成されて、八月十日出発、マニラに向け南下していた。泉師団、泉連隊の運命の出発であった。この一箇連隊は、玉津丸、越海丸、香椎丸の三隻の輸送船に分乗、連隊総員一万二千名、救国の使命に燃えて堂々たる体勢であったが、案ずる如く台湾を離れる頃から、しきりなる敵潜水艦に怯かされ通しであった。将兵は甲板上に装備を着けたまゝ、いつでも海中に飛込む事の出来るような姿勢で竝んでいたと云うから、並大抵の不安や焦燥では無かったと思う。この誠実にして悲運の部隊に、神霊の加護も祈りも盛運も虚しかった。玉津丸の右舷にいきなり二発の魚雷が命中したのは、もうじき夜が明けようとする頃であった。瞬時にして、輝くばかりの真新しい連隊旗を抱きかゝえた連隊長安尾大佐と共に、兵員、武器、弾薬ことゞく海底に没し、船影は魚雷命中後三分で視界から消えてしまったと云うから、無念極まりない轟沈であった。時に、昭和十九年八月十九日、午前四時三十分であった。これより六時間前、直衛空母『大鷹』が炎上轟沈してしまったので、予定の行動の船団を解き、てんでに単独航行をして目的地へジグザグで行くことになっていた。船列が乱れていたゝめ、兵員の救出も出来なかったらしい。玉津丸には、独立歩兵第十三連隊の連隊本部と、第二大隊、歩兵砲隊、通信隊ほか五千人が乗っていたが、救出されたのは尾崎大尉以下たった十数人であったとは、断腸慟哭、尽きせぬものがある。

 そらを使ったように白々と夜が明けた。百人位が筏や、船材などにしがみついて、眼玉だけをぎょろぎょろさせて泳いでいた。中島秀次君の漂流記には次の如く書かれている。誰かゞ連隊歌を歌い出した。それに和して、みんなも歌い出した。やがて、唄は途切れゝになり、声も聞えなくなった。次々に掴まっている浮游物から手が放れ、姿が見えなくなった。最後には十人足らずになって仕舞い、半死半生で漂流している。「今度生きて帰ったら、静岡へ遊びに来いなあ。」などゝ、泣き声で話かけたり、白い雲を見て乳房豊かな女の体に見えたりし始めた。又、中には歌を考えたりしている者もある。

 太刀負いし 隊長を囲む友のむれ
   筏にみとむ心強かれ

 とっときの 食糧をくう筏あり
   眺めてさほど羨やみもせず

 筏を組んでその上に、最初の日は七人位掴まっていたらしいのだが、だんゝ話をする戦友の数が少なくなっていく姿を、

 昼の月 飢え昂まりて物云わず
   筏に坐せる七人を見ている

 つぎゝに 友たち逝きて筏ぶね
   ひろく寂しくなりにけるかな

 かくして遭難五日目の筏には、とうゝ二人だけになって仕舞うのである。彼の毎日の仕事は、筏の上に立って島を探す事であった。島が見つかったとしても、漕ぐにすべなく筏ではどうする事も出来ないのは判った事であったが、陸が恋しくて堪らなかった。水平線に湧く雲を眺めていると、何んとはなしに夢が湧いて来た。寝ていたりしていたんでは、その間に島の傍を通り過ぎてしまうかも知れない。「そうだゝ、ふんとにそうだ。」と独言を云って居る。張りつめた気持が血管を僅かではあるけれど温めてくれる。その日も虚しく一日が過ぎる。

その次の朝も彼は早く眼覚めた。毎朝の仕事として、帯剣で筏のへりに一条刻みを入れる。もう今日で八日目である。玉津丸が沈んだのは、南支那海もマニラに近い辺りだとすると、東には幾千ものフィリッピン群島が有るのだし、南にはボルネオ、ジャワ、スマトラなどのマレー群島が有る。西には南支那から仏印、マレーの国々が有るじゃないか。今日こそは島が見えてくれる様に。ぶつゝ云い乍ら筏に立上ろうとすると、彼は何かに躓いて転んでしまった。しかし、躓いたと思ったのは間違いであった。始めて、自分の腰がすでに上体を支える力を失っている事に気がついて愕然とした。恐ろしい谷底を見るような気持で、筏の上に坐り込んでしょぼゝした眼をこすりゝ覗き乍ら、竹の様に細った脛を撫でゝ、「駄目だ、死ぬぞ。」と叫んで泣き出した。流れて来た四斗樽の醤油の空樽を抱いて、日本文字の商標の焼印を手でこすり乍ら、叩いては泣きわめき、唄を歌い出す。軍歌ではなかった。お祭りの唄であった。「こゝ迄頑張って、くたばってたまるものか。あの白い雲の向うに、きっと島が待っているのだ。」と、その時、島の出っ鼻にゴツン、と筏がぶつかって眼がさめた。夢だったのだ。鱶の野郎が一匹、鰓から上を筏の上にのっけて何か考えていた。

 白い乳房であった雲は、この二、三日コッペパンやお皿に盛ったライスカレーに見える様になった。夕暮の黄金色の雲が、だんゝ輝きを失って、白い積乱雲となる。やがて水平線には渺茫たる空白だけが残る。そうして今日一日の夢が消える。悪魔の様な闇の海だけが彼をとりかこむ。しかし、生きぬく人間の逞しく、そして美しい琴線だけは、まだ健在でいる。和歌を考え、戦友を想い、うつらゝと長い漂流が続く。かくて、十九年八月三十日、付近航行中の日昌丸対潜監視員に発見され、この二人は気を失ったまゝ台湾高雄陸軍病院のベッドに収容され生還した。バシー海溝で海へ投飛ばされてから、丁度十二日目であった。

 壮烈、悲愴、かくして十三連隊の主力は、軍旗と共に五千人をバシー海溝に失った。同航していた香椎丸は、第三大隊本部と、第九、十、十一、十二中隊、それに第一、二機関銃中隊を満載して、潜水艦に追われ乍らも、どうにかマニラ港に入港した。それとは別に、第一大隊の乗っている越海丸も、僚船が次々に撃沈されたが、無事に目的地の北サンフェルナンドに上陸が成功した。悲風惨として、戦線は苛烈の頂点であった。一刻の猶予もならなかった。斎藤二郎大佐が新連隊長として着任、海没兵員の補充も慌しく完了した。九月の二十一日、全ルソン島に空襲警報が鳴り響き、ヒ島第一回の大空襲をきっかけに、連日敵の猛爆に曝されるようになった。無念なるかな、今日も友軍機は姿を見せて呉れなかった。爆撃の焦熱地獄の中で、連日連夜、反日抗日テロが頻発し、状況は極めて悪化の一途をたどった。その頃、兵員に一枚ずつ航空はがきが配給され、一番身近な者に出せ、と云う命令であった。かつて、静かなりし内蒙の想い出や、バシーで失った戦友の事や、遠い故里のみんなの顔を想い浮べながら、たどゝしい文字を連ねて、一枚のはがきに小さい字で一杯に文句を書いた。ある兵隊のはがきには、「お母さん」と最初に鉛筆で書いてあった。

  象と云うケダモノは幸せな奴だのう。死期が近づくと、故里の山へ帰って来るのだとよう。そのくだりをごしゝと指先で消して、象と云う奴は、死期が近づくと故里の山へ帰って来るのだそうだ。おら、こんな遠くへ来てしまっただもん。元気で生きているずら。

 ココ椰子の葉は、青い月の光に濡れていた。土人共の奏でるハワイアンの音を聴いて、万感の想いにふるえ乍ら書綴ったこのはがきが、最後の別れの遺書となったのである。

 十月の二十日、マッカーサーは、太平洋艦隊と行動を共にして、馬鹿ゝしい程の物量をひっ下げ、こゝに上陸して来た。空母十八、戦艦六を含む艦艇八十隻、各種船舶四百二隻。かつて北辺蒙古の辺境に、対ソ戦法を訓練した精兵部隊が、今こゝ南国の熱地に、祖国の運命を双肩に担うような宿命に立った。祖国よ安らかなれ、と祈念しつゝ玉砕の命を受け乍らも、実に整然と至誠に徹し、死すべき時と処を得たとばかりに、爛々と眼を輝かせて、祖国と戦友に訣別をした。だがしかし、国民は動揺し、大本営は血走って絶叫しても、闘魂と至誠だけでは、如何ともする事は出来なかった。敵の上陸により後退して、迎撃戦法のやむなきに至り、悲壮なる斬込み戦闘に明け暮れていった。一発の爆弾を抱いて敵の砲門にしがみつき、体を伏せて自爆した。重畳たる山岳を越え、砲のない砲兵隊は石を投げて攻撃し、銃弾のない散兵は床尾板を振廻して阿修羅の様に暴れ廻った。

 こんな小さいレイテなんて島に、なんで米軍はヒ島奪還の第一歩を印したのであろうか。それはこの島に、飛行場に必要な地域があったゝめだと思う。レイテ島は南北二百哩、丁度九州を細長くした様な島で、中央に標高千四百米のピナ山を主峰とする山脈が南北に走っていて、東と西を分断しており、その東方地区は海岸迄地形が開豁なので、ここを飛行場にねらったのであろう。その年の十一月初め、共に行動して来た第十六師団三十三連隊は、タクロバン付近の高地を占領していたが、敵上陸部隊のために、連隊長以下軍旗諸共全員玉砕。歩兵第九連隊主力は、シナルガン付近を確保していたが、その後連絡なし。歩兵第二十連隊も、マリワノウ付近で激戦、その後状況不明。セブ島から増援されて来た第一〇二師団の歩兵第四十一連隊はロングヒアハイ付近で戦闘中。戦況は、いよゝ険悪悽愴になっていった。

 十一月二日、落陽海に沈む頃、泉部隊の一大隊主力は、一師団のカリガラ付近進出に協力するため、機帆船八隻に分乗して南下転進、万難を排してオルモックに上陸を敢行した。が、早くも湾内に於て米爆撃機三十機の攻撃を受けて多大の損害を蒙り、全員が携行兵器のみで海中に突入した。この時、斎藤大隊長は戦死した。十一月十日、連隊主力は師団主力と共に、輸送船五隻、艦七隻の掩護のもとにマニラ港を出帆。レイテ島オルモックに前進したが、これまた途中暴風雨にはゞまれ、更に米海軍機の反復爆撃に曝され上陸成らず、船舶全部と艦艇五隻が沈没し、重装備軍需品の大部分が海没、兵員も大損傷を受けたのであるが、今だ闘魂毫も揺るがず、僅かに携行兵器をひっ下げて丘に辿り着き、オルモックの北側ドロレス付近に集結、今堀支隊の前進陣地へ進出しようとしたのである。やがて、小笠大隊長が戦死。日本軍は大勢を一挙に挽回するためには、どうしてもブラウエン基地群を奪還するより外に方途もなく、この攻略を主目標に、十一月二十三日以降行動を起したのであった。先ず陸海空軍百機を以って、同飛行場及び艦船を攻撃すると共に、二十六日、ダグラス三機に分乗した薫空艇隊八十名が、ドラック飛行場に強行着陸して滑走路を爆破し、米軍を混乱させたのであった。泉師団長は、この連隊の第一大隊、それに第二大隊と十二中隊の二箇大隊に対して、依然北進中の米七師団を阻止させるべく斎藤連隊長に指揮を命じ、師団主力を十二月三日の未明、当面の米軍と離脱させてブラウエン飛行場攻撃に向ったのである。かくて、筆舌に尽くしがたい激闘が繰返され、この飛行場争奪をめぐって血戦が展開された。泉部隊第三大隊は、十二月六日にブラウエン西方の隘路口に達し、この飛行場の幕舎と火砲を破壊、多大の戦果を挙げたのであるが、米軍の逆襲は猛烈を極めたゝめ確保困難となり、西方山中に後退するのやむなきに至る。第一大隊は、十二連隊一大隊と共に、数倍の敵軍と対峙、山岳の天嶮を利して孤軍よく凄絶な戦闘を続け乍ら、アルブェラ方面に後退した。翌七日未明、米軍新鋭七十七師団は突如として、艦船四十を以って日本軍の策源地オルモック付近に上陸を敢行した。我が十四方面軍は、直ちにブラウエン作戦を中止し、全力を挙げて来攻の米軍を迎撃することになった。泉兵団の諸部隊は、血戦のブラウエンを放棄して、米軍の追尾攻撃を受けつゝ山腹を辿って反転のやむなきに至ったのである。

 天嶮を攀じ、斜面を走り、一分でも長く生きて戦友を助けたいと願った。一人でも多く敵を斃したいと思った。幾度か奪回の行動を起したけれど、ことゞく絶望であった。肉弾白兵の死闘を繰返し、全身全霊を以って闘い続けたが、とうゝ駄目であった。振返り見ると、オルモックは炎々たる火煙に包まれている。師走十一日、遂に米軍の手中に帰した。連隊の主力は、稜線地帯で死闘を続けていたが、オルモック上陸の敵を腹背に受け、連隊長を先頭に全員突撃を敢行、昇天した。遂に、レイテ島全軍の運命は幕を閉じた。

 昭和三十三年九月二十三日、静岡県護国神社の緑に囲まれた一隅に、悲涙の追憶慰霊の碑が出来た。この部隊の生残りの人々、石上節君などを中心にして、戦友同志がひたむきな努力を結集して造ったその碑は『殉国の碑』と刻まれた。この碑をふりあおぐ時、あの若き人々の痛ましい記憶は、痛恨遠く久遠に戦史を飾るであろう。この碑文を涙に濡れてたどりながら、人々は戦いすまじ、と心に刻む事であろう。

 碑の表には次の様に書かれている。

 泉第五三一六部隊ハ関東軍ニ属セル独立混成旅
 団トシテ支那事変ノ拡大トトモニ熱河ヨリ中国ニ
 進出 長城線ヲ突破シ 昭和十二年十月張家口ニ
 於テ 第二十六師団独立歩兵第十三連隊トシテ編
 成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年十一月二十六日軍
 旗ヲ奉ズ
 爾後 綏遠周辺ノ警備ニ任ジ 五原 中支 中
 原 淅カン 河南等幾多ノ作戦ニ其ノ赫々タル戦績
 ハ威勲ヲ四囲ニ輝カセリ
 時恰モ大東亜戦酣ナル昭和十九年七月 比島方
 面ニ急派セラレ 同年八月十九日未明バシー海峡
 ニ於テ魚雷攻撃ヲ受ケ 無念ニモ 連隊本部 第
 二大隊ハ軍旗卜共ニ海没 第一 第三大隊ヲ主力
 トシテ最激戦地 レイテノ決戦ニ参加 戦力ヲ物
 量ニ頼ル優勢ナル敵ト死闘半歳有余 此ノ間忠烈
 ニシテ勇猛果敢ナル奮闘ハ全軍ノ亀鑑トシテ上聞
 ニ達セルモ遂ニ全員玉砕ス 鳴呼
 今茲ニ殉国ノ至情ヲ讃へ 大陸ノ山野ニ或ハ南
 海ノ孤島ニ散華セル我ガ勇士ノ霊ヲ慰ムルトトモ
 ニ栄誉輝ク部隊ノ偉績ヲ永遠ニ伝へンガ為 建之



HOMEへ戻る



Googleで検索
サイト内を検索