独立歩兵第十三聯隊誌


【書名】独立歩兵第十三聯隊誌
【著者】独立歩兵第十三聯隊誌刊行会
【発行日】昭和五十五年九月十五日

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無事帰国された方々の話と十三聯隊の誕生からレイテ玉砕までの事が書かれています。二千五百有余名の戦友名簿、それから凄く綺麗な軍旗の写真と、歴代聯隊長、静岡護国神社にある殉国碑の写真が掲載されています。兵隊さんの写真も沢山有ります。・・・戦没者名簿が無い事が編集者の心残りとの記述がありました。(右写真:海に消えた連隊旗)

泉五三一六会の誕生
泉五三一六会会長 鈴木重秀

外地(北支)で生まれ、外地(レイテ)で聯隊長以下玉砕した、われわれの先輩並びに戦友達には内地に残るものは何も無い。何かを残したいと念じていた時、昭和三十二年三月、独歩第十一聯隊は名古屋に碑を建て、慰霊祭が行われたので参列した。わが聯隊は昭和十五年徴集以降は静岡県の人がほとんどであり、ご遺族の多い静岡の地に碑を建てたいと思いながら、なす術もないまま模索していた頃、河合博、瀬川喜八郎君などと連絡がとれたのが始まりであり、同年十一月十日、名古屋泉会代表山田武彦君と連絡のとれた十一名と、第一回発起人会を開き得たことが、会の誕生の基礎となったのであります。ここで石上節君という鉄の固まりの如き熱血の人とめぐりあえたことが、今日あるといっても過言ではないと思っております。発起人を中心とし、志を同じくするものの、情熱はさらにさらに輪を広げ、寝食を忘れ会員(生存者)の調査、掌握への努力は涙ぐましく続けられ、昭和三十三年二月十六日、静岡市公会堂において三百余名の参加を得てまず第一のステップともいえる「泉五三一六会結成会」が行われ、九月を目標とする慰霊行事(慰霊祭の執行、慰霊碑の建立)、戦史の編纂、地区委員による募金(会員のみ)等の大綱が出来上り、力強く第一歩を踏み出したのであります。たまたま、時を同じくして始めて政府によるフィリピン方面戦没者の遺骨収集並びに現地慰霊が、一月二十日銀河丸出発によって行われ、最激戦地で収骨された御遺骨を慰霊祭の祭壇に安置することが出来たのであります。その後、役員理事会は頻繁に行われ、三つの柱の推進のために努力に努力が重ねられ、名古屋、岐阜の「泉会」が念願しながら果たせなかったところの護国神社境内に慰霊碑建立用地を確保するということがきまり、篆額を元支那派遣軍総司令官畑俊六氏にお願いしたところ快諾を得、碑文は初代聯隊長久野村桃代氏にお願いするなど順調に運んできたが、地区委員を中心とする募金の方は、会員が広範囲にわたっているため困難を極め、一口五百円の募金をするのに、それ以上の交通費がかかったり、趣旨をよく説明しても拒否される会員などのあったことも聞きました。このような経緯のうち、会員の誠心と関係機関のご協力により、秋晴れのもと昭和三十三年九月二十三日、護国神社社頭に五千名を越える御遺族、来賓及び会員の参加を得て、盛大裡に慰霊祭及び殉国碑の除幕式がとどこおりなく完了した時、役員理事一同は終生忘れることのできない感激を覚え、感涙にむせんだのであります。念願とした一基の碑を建て、慰霊行事も終った。しかし今後、毎年続けて行うことが出来るだろうか。危惧の念は頭から去らなかったが、第二回以降も毎年秋の彼岸の中日、午後一時より慰霊祭を行い、ここに第二十三回を迎えることが出来たのであります。 これも偏えに会員のご理解と、誠心のふれ合いによるものであり、この慰霊行事は、会員最後の一人になるまで続けて行うことを念願し、毎年その誓いを新たにしているものであります。


聯隊歌
一、
興亜の意気に血は燃えて
大皇軍の前衛と
昭和十二の秋深く
燦然仰ぐこの御旗
栄誉輝く我が部隊
ニ、
黄塵巻きて胡砂踊り
陰山颪鉄火飛ぶ
河曲沫源オルドスや
鎧袖一触五原城
勲は薫る我が部隊
三、
楊柳芽ぐむ黄河畔
熱砂涯てなきゴビ砂漠
蒙彊楽土の我が理想
八紘一宇の秩序成る
あゝ明朗の我が部隊
四、
見よ綏遠の朝ぼらけ
精気は清く立ちこめて
殉国勇士の魂魄か
国の精華の花の色
あゝ忠烈の我が部隊
五、
世紀の雄叫び濤々と
白波高し太平洋
寒風吠ゆるウラル山
誰か阻まん大和魂
あゝ堂々の我が部隊


昭和十六年春、通信隊 坂梨健雄氏が叩き台となる四節四連の作詩をし、その後石黒連隊長が一般将兵より詞を公募し十編以上の作品の中から、よい部分を取捨し連隊歌が生まれました。
(石黒連隊長編詞)
その後厚和在留日本人小学校の女の先生により作曲されました。



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