レイテの山河に祈る


【書名】レイテの山河に祈る:慰霊・収骨二十回の記録
【著者】泉レイテ島慰霊巡拝団/編
【発行日】1986.8
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帰還者の証言、遺族の声と思い出、特志・戦友としての思い出等、多くの方の言葉が載っていましたが、一人当時の輸送船の様子などが解る文を載せていました遠藤氏の「バシー海峡のこと」を載せます。



バシー海峡のこと 遠藤太造
独歩十二聯隊(泉五三一五)第一機関銃中隊 生還

光陰矢の如しと申しますが、早いものであれから既に四十年も過ぎました。記憶も薄れ確かでは有りませんが、思いつくまゝに書きます。
思えば昭和十九年七月下旬 北支大同より移動し、八月八日七千トン位の貨物船 日昌丸に乗船、釜山を出港して伊万里湾附近で船団を組むために碇泊、一日位居たと思います。
第二大隊は別の船でした。其の間に輸送船が増え、内地の山や人家が小さく見え、人の動くのも眺められた。これが祖国の見納めかと皆が思い、夜が明けると船は船団を組んで三列縦隊の様になって、白波を蹴立てゝ航行して居りました。輸送船が二十隻位と改造空母一隻、駆逐艦四隻位が護衛として船団の外側を前になり後になり廻りながら併進して居り、堂々として頼もしいものでした。上甲板には通る所も無い程馬鈴薯・玉葱・南瓜等が積んで有り、日が経つうちに其れが無くなっていきました。便所は両舷の外に前部と後部に四か所に、臨時に木で作った簡単なものが六つ位づゝ有り、中に入って下を見ると海の上です。沖縄附近では相当なしけで、船が物凄くゆれ船酔いする者が半数以上も続出、食事も雑炊が多く船酔者が食べなくなった量もだんだん少なくなりました。
連日暑く曇天で雨がよく降り、身が湿っぽく気持ちが悪いのに風呂が無く往生しました。船倉の中や甲板は兵隊で一杯です。三千人位乗って居たのではないかと思います。船倉の四角に大きく開いた口には、上甲板から船倉の底迄運動会で使う太いロープで編んだ網が四方張って有り、いざと言う時には多勢の兵隊が一時も速く、船倉から上甲板に上がれる様になって居りました。飲料水が少なく、飯揚げの時、薄いお茶が飯盒の蓋に半分位で、後は全然有りません。昔の船は蒸気機関ですので、上甲板の起重機附近のバルブやパイプの継ぎ目から蒸気が出て、それが外気に触れると水滴となり、チョーンチョーンと落ちて居りました。私は油臭くて腹痛を起すと思って居りましたが、ふと気が付くと誰が始めたのか其れを水筒で受けて居るでは有りませんか。七・八人並んで居りました。私も早速並んで聞いてみたら何とも無いとの事、何時きめたのか一人水筒一杯となって居りました。八か所位有った様で、何所も同じ状態でした。水筒が一杯になるのに一時間位かゝった様で、それが二十四時間休むこと無く続くのです。
船酔した者は食事が咽喉を通らず、水ばかり欲しがります。それが飲ませても、二~三分で戻してしまう始末です。水が乏しいので、時間を見計らって少しづゝ与えました。食物を殆ど摂って居ないので、ぐったりして動くのがやっとです。元気な初年兵は飯揚げと水受けが、総ての勤務と言う状況です。古年兵以上の者は、只何となく過ごして居た様でした。将校は船室で、殆ど顔を合わせませんでした。釜山を出港して一週間程たった頃、島が見えて来ました。船員に聞いたら膨湖島で、此の頃船の中では今流行というラバウル小唄が聞かれる様になって居りました。程なく馬公に入港し、水や食糧の補給をしました。一日位碇泊したと思いますが、船酔した者は一息つき元気を取り戻した様でした。小舟で船の下へ物を売りに来たが、買ってはいけないと聞かされて居り誰も買いませんでした。
馬公を出港後二日目位の夕方、まだ海は荒れて居りました。只今バシー海峡を通過中、「今夜半米潜水艦の攻撃を受けるやも知れず、全員救命胴衣を付けて寝ること」と命令がありました。バシー海峡では潜水艦の攻撃を避けるためジグザグに航行する、と船員に聞いて居りましたから、まさかと言う思いで、皆んな大して心配もせず寝ました。それが事実となりました。夜半時計を見る余裕も有りません。突然ドカーンと轟音で目がさめました。私たちの小隊は、左舷の後部中央の上甲板が定位置でした。左舷の前方が赤く明るく成って居り、起き上がって見ると左舷を並んで進んで居た一万トン位の客船がやられたのです。びっくりです。海に落ちるのか飛び込むのか、豆粒程に見える兵隊がこぼれる様に海に落ちて行くのがハッキリ見えます。俺たちも今にあゝなるのか、と不安で胸が一杯になり声も出ません。船倉の中に居た兵隊が続々上甲板に上って来て、足の踏み場も有りません。又突然ドーンという轟音がして、船が物凄くゆれた。やられたと言う声が聞こえて来た。
輸送船が搭載して居た大砲を撃ったのです。其の時誰かが魚雷だと言うので海面上を見ると、斜め後方に白い波頭を立てゝ船に近づいて来る物体が有りました。これが魚雷です。見て居ると船の五メートル位で曲り、遠ざかって行くのです。船が上手に舵を取ったのでした。皆本当に喜びました。
後から聞いたのですが、右舷でも同じ様な事があったそうです。其の間も彼方此方でドカーン、ドカーンという轟音がして、附近の海面が真昼の様に明るく、やられた船が沈んで行くのがよく見えました。短い時間でしたが、それが終ると真暗になり何も見えません。皆不安で眠る者は居りません。夜が白々と明けて周りが見える様になり、気が付くと私たちの日昌丸一隻だけ残って居りました。他の船がどうなったか皆目解りません。船員に聞いたら、安全の為バラバラになったと言いました。
その朝八時頃かと思いますが、進行方向に黒煙りが見え近づくと日本の駆逐艦でした。その駆逐艦の護衛で航行、夕方陸が見えて入港した。何所の港か解りません。聞く所によるとルソン島北サンフェルナンドと言う事でした。
既に四隻程輸送船が入港して居り、助かった船だなと思いました。夜間航行は危ないので昼間の航行となり、ルソン島西岸に添って南下、今度は飛行機が護衛に上空を飛んで居りました。其の中の一機が山に激突炎上するのが見えた。僚機が其の上空を二~三回旋回して、飛び去って行きました。愈々戦場が近くなった感がして来た。マニラ入港後二晩程上陸できず船上でした。もっと南に行くのかとも思いました。港内には軍艦や輸送船が可成り碇泊して賑かでした。後で聞いたのですが埠頭が一杯で接岸できなかったのでした。やっと上陸ができた時、皆ホッとしました。


心のうた
われは海の子、朧月夜、あおげば尊し、荒城の月、旅愁、埴生の宿

当時の流行歌
丘を越えて、酒は涙か溜息か、影を慕いて、旅の夜風、湖畔の宿

軍歌十数曲
第八編 資料(小冊子)の中に"想い出のしらべ として英霊の皆さんが青・少年の頃の心のうたを数曲のせました。"とあります。これにはグッと来ました・・・また当時の流行歌、その他に軍歌十数曲ものせてあります。


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