レイテの山河に祈る(写真集)


【書名】レイテの山河に祈る 写真集
【著者】泉レイテ島慰霊巡拝団/編
【発行日】1991.8
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発刊のことば
r321.jpg(63896 byte) フィリピンのレイテ島は私にとって魂の故郷であります。戦後、この島への慰霊巡拝は、原隊の泉慰霊巡拝団だけで25回を数えます。その他ガイドを頼まれて渡比し、この島に足跡を印したのを加えると28回になります。この島には泉の1万数千の戦友が眠っていることを除けば、なんの魅力もない南海の小島です。そんな島へ1年に1回以上行きたくなるのは、戦友が私たちの来るのを待っていてくれると信じているからに他ありません。私は戦時中、この島で戦った経験はありません。戦史や生還者からの証言だけの知識です。しかし太平洋戦争中、こんな小さな島で守備隊と増援部隊併せて7万9000人もの戦死者を出した戦場はこの島を除いてはないはずです。いかに過酷で悲惨な戦場であったかはこのことでも証明されると思います。この地獄の戦場で戦没された兵士達を追悼することは、遺族たると戦友であるとにかかわらず、生き残ったわれわれの責務であるとの考えから慰霊巡拝を始め今日に至っています。不戦平和を願う者にとって、この写真集を残すことによって、平和への道程にしたいと念願しております。遺族の一人、後藤正男氏はこれまでに『ああレイテの墓標』を自費出版され、泉の慰霊巡拝団は『レイテの山河に祈る-慰霊・収骨20回の記録』を上梓しました。今回出版することになった『写真集 レイテの山河に祈る』は、第1次から25次までの写真を中心にし、それに戦場毎の戦闘経過の概要を挿入して編集しました。第1回の編集会議から2ヵ年の歳月をかけ後藤氏をキャップとするスタッフの心血を注いだご努力によって、この困難な作業を完成させていただいた。本日この発刊のことばを書けるのは感慨無量なるものがあります。顧問、編集委員、事務局の皆さんに心からお礼申し上げます。巻末には白紙のページを準備しましたので、それぞれの方が自分の写真を貼り「わが家のアルバム」として長く保存されることを願っております。
平成3年終戦の日に

山田武彦


重松大隊が進んだ細い道
323.jpg(151924 byte)脊梁山脈を越えてブラウエン急援作戦に昭和19年11月、レイテ島に上陸した泉兵団のうち重松大隊などの将兵は重々たる脊梁山脈を越えてブラウエンへ向かった。写真では海岸近くにアルベラの町が見え、右側はタリサヤン川の深いがけになっていることがわかる。兵は両側の谷になった細い道を進んだと思われる。


ブラウエン南飛行場跡での慰霊祭
img339.jpg(77239 byte) レイテ島の数ある激戦地の中で二度にわたって争奪戦が演じられた戦場は少ない。その数少ない激戦地の一つがブラウエン飛行場群である。
南飛行場(バユグ)、中飛行場(サンパブロ)、北飛行場(ブリ)の三つがそれである。第1回目の戦闘は米軍上陸直前後の昭和19年10月25日で、サンパブロ飛行場の整備要員も南飛行場の防衛のため移入された。この戦闘は激戦であったが、戦闘詳報は日米両軍ともに残っていない。第2回目の戦闘は米軍占領後、これを奪回するための空陸一体の大激戦であった。泉の独歩13聯隊重松第3大隊が、西海岸に上陸後、脊梁山脈を越えて参戦した。米軍は脊梁山脈越えの増援部隊の進出はまったく予期していないだけに米軍の混乱は想像以上であった。12月6日夜まず重松大隊の斬り込みによって火蓋が切られ、18時40分虎の子精鋭高千穂降下部隊(挺進第3聯隊)の敵中降下によって最高潮に達した。皮肉にもこのころ西海岸ではレイテ決戦に重大影響を及ぼす一大事が突発していた。米軍戦略予備77師団のイピルデポジト海岸逆上陸である。
せっかく占拠したばかりのブラウエンの戦線を離脱して重松大隊は反転の命令を受けた。再び筆舌に尽し難い山越えとなった。この間、弾薬食糧の補給は皆無、ダナオ湖を経てオルモック近郊にたどりついた兵は数えるほどに激減していた。重松大隊の無念、察するに余りある。
なおブラウエン西方10キロ付近において山越え進攻時、資材輸送に任じた輜重兵第26聯隊(泉5321部隊)進攻路啓開作業に任じた工兵第26聯隊(泉5319部隊)、同部隊配属の独立工兵第65大隊(威6089部隊)はこの地で玉砕したと伝えられているが、密林地帯で入山不可能、その詳細は不明のままである。昭和45年4月16日独歩13聯隊戦没者慰霊碑を山麓に建立した。


山県栗花生中将追悼式
img335.jpg(73845 byte)第26師団長(泉)山県栗花生(やまがた つゆお)中将は昭和20年4月ごろ、オルモックと西岸の港ハロンボンとの中間地点の高地ナグアン山で戦死した。最近まで終焉の詳報はなかったが旧35軍関係者らの情報でようやくナグアン山での最期が確認され63年3月4日、第22次の慰霊巡拝のとき山麓のナグアン小学校で初めて追悼式を行なった。


ダナオ湖
img347.jpg(94123 byte)レイテ島には霊地と呼ぶに相応しい個所がある。それはレイテ島を南北に縦断している脊梁山脈のなかに、静かな佇みを見せるダナオ湖(一時イメルダ湖とも呼ばれた)である。レイテ決戦末期、撤退命令に基づき、ダナオ湖-オルモックを経て、カンギポット山に向かった日本軍が、糧秣補給皆無の最悪条件下にありながらも、ダナオ湖まで行けば飲み水だけはありつけるという淡い望みを胸に、重い足を引きずり辿りついたところでもある。一方米軍やゲリラ側にもこのことがわかり、途中や湖畔に待ち伏せ攻撃を受けるようになり、日本軍側に多大な犠牲者を出した痛恨の地の一つでもある。
その霊地も、今はNPA(新人民軍)の根拠地の一つとなり、途中の集落に昭和59年4月建立した師団通信隊戦没者慰霊碑までは、P.C.(国家警察軍)の護衛付きで行き参拝できるが、それより奥は入山不能となってしまった。


レイテ作戦陸軍部隊・編成表
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ブラウエン南飛行場跡(バユグ)
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ブラウエンの戦闘経過(12月6日~11日)
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レイテ鎮魂の歌
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編集委員会
(平成2年12月15日)
hen.jpg(44058 byte) 編集委員(敬称略・五十音順)
安達史子、安部剛一、磯村誠強(故人)、伊藤秀朗、大倉定夫、小園保、後藤正男、近藤鋭一、佐藤弘、鈴木重秀、鈴村渉、立松俊雄、土屋美治、中島章、中島祥一、宮野正夫、村上順策、山田武彦

泊まり込みのレイアウト作業
(平成2年11月4日)
hen_b.jpg(39708 byte) 編集スタッフ
(総監督)山田武彦 (編者代表)後藤正男 (戦闘経過の概要)山田武彦 小園保 (装丁)小園保 (色紙)三宅初美 (題字)後藤正男 (レイアウト)後藤正男 小園保 坂井稔美 (資料収集担当)後藤正男



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