重松大隊の戦記


独立歩兵第13聯隊(泉5316部隊)第3大隊(重松大隊)の戦記
昭和19年
7月6日
  泉師団への対米作戦参加準備の内命は多くの戦記では7月7日となっているが、父からの7月6日付手紙から、第3大隊は7月3日討伐(河南作戦)に出発、折しも非常なる重要命令に接し、翌4日厚和帰着 目下準備に忙殺中 いずれにしても生還は期し難いとある。恐らく比島戦線への参戦は この時点で既に知らされていたものと思われる。 その後7月14日付の手紙では営庭にて第3大隊千数百名の軍装検査をしているとある。
15日
  軍装検査終了
16日
  軍旗拝受 出陣式
22日
  聯隊は3梯団に分かれて厚和駅を鉄路南下 最終の第1大隊は午後2時出発
28日
  12時まで全部隊 釜山港に集結 釜山各小学校に分宿 乗船 水泳 対潜の戦斗訓練に励む
8月1日
  父より写真送付あり 釜山まで面会に行かれた方もある
上旬
  留守部隊より 冬服 下着等が軍用行李にて送付される 南方地区えの転進が伺える
7日
  第1大隊を除き釜山港第2埠頭から出港 第3大隊本部 第3機関銃中隊 第9 第10 第11 第12中隊と第1機関銃中隊 他の部隊等4千名は香椎丸に乗船
8日
  釜山港出港 30数隻の船団で伊万里湾へ 船上から港の魚市場での人々の往来が散見され望郷の念にかられる
10日
  伊万里湾 出港
南下とともに次第に暑さも厳しく 船酔い者続出
15日
  折からの台風を避け台湾 澎湖島 馬公に寄港
17日
  馬公を出港 ジグザグコースをとり航海したが18日夜 小雨降る暗夜に敵潜の魚雷攻撃により 聯隊本部 第2大隊 通信中隊乗船の玉津丸沈没僅かに尾崎大尉以下十数名が救助される
22日
  マニラ港入港 停泊すること1日半で下船 リンガエン湾の警備に就く
27日
  中部ルソン島 タルラック州サンミゲルに進駐 警備と演習に明け暮れる
9月17日
  齋藤二郎大佐 聯隊長として着任
21日
  ルソン島 第1回大空襲あり
10月7日
  マニラ集結の命令 この頃最後の航空葉書を全員に渡される父からも母宛と 伯母宛に葉書あり
10日
  13聯隊 マニラに到着
20日
  米軍 レイテ上陸
30日
  第13聯隊 各隊軍装検査実施
11月2日
  第1大隊は機帆船 8隻に分乗 マニラ港出港 『 第3大隊他 師団司令部など他の泉部隊は高津丸 金華丸 香椎丸に乗船 11月9日出港』 11/11早朝払暁を期し上陸すべき準備をしたが夜明けとともに 米海軍機の反復攻撃 及び船挺発動機故障等により不成功となり重装備 軍需品の大部分を海没し兵員も多数の損害を受け僅かに遂行兵器のみで上陸 直ちに不気味にも荒れ果てた、オルモック街道を急遽 師団主力とともにオルモック北方 ドロレス付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。
第3大隊は重機関銃以下を揚陸したことが証言されている。後に迫撃砲六門増加 戦後 佐藤弘氏(泉遺族会)が慰霊巡拝の為踏破の際 脊梁山脈山中より重機関銃を発見回収した。当時の戦況から恐らく第3大隊以外には考えられず 現在は静岡護国神社に奉納されている。
11月12日
  14方面軍は敵航空基地の壊滅を図るべき 26師団をブラウエン飛行場群の奪還制圧作戦(和号作戦)に使用すべき結論を下し 本命令を35軍に下達35軍は直ちに カリガラ会戦を中止し26師団をアルベラ~ブラウエン方面に指向すべ作戦部署を命令、これを受けて師団主力はダムランを目指し進撃を開始
当時 米軍第7師団はアブヨク~バイバイ間道路を修復しバイバイ方面から北上しており 不期遭遇戦となったが、第3大隊は和号作戦先遣隊として12日夕刻イピル地区出発 タリサヤン川 南岸を東進した。
15日
  第3大隊 マホナグ着
20日
  第3大隊 ルビ南東2粁に進出 この時一部の敵と遭遇し これを撃退
22日
  第3大隊 マタグバ東方地区に進出 先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊 200名 抜兵団)を掌握
27日
  工兵26聯隊 聯隊長品川彌冶中佐は「ルビ」まで野砲臂力搬送道を完成したと師団本部に報告
28日
  第3大隊「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告 正面の敵が空中補給を受けているのを目撃 重松大隊は山に入ってすでに半ヶ月経っていた 補給は十分でないから この頃は多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出ており その状況下 同日12:30~18:00の間に大隊は「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告している。ダキタン川渓谷に沿った小高地を巡って、米511聯隊との苦闘が察せられる。
12月3日
  第3大隊主力は205高地付近を進出中にて6日頃「ブラウエン」飛行場に対し約40組の斬込隊を投入する予定なり、その一部は「ブラウエン」南方5キロ327高地を前進中なり、野中大隊(第30師団77聯隊の一部を基幹としてオルモック周辺にあった部隊を集成)は3日04:30「ルビ」着 15:00 287高地に前進せり
井上大隊(第12聯隊第2大隊)は12日夕「ルビ」到着予定
泉(第26師団)戦闘指令所は4日午後287高地に前進予定なるも結局進出しなかった
12月5日
  第14方面軍作戦参謀 田中光祐少佐(当時35軍に派遣されていた)は戦闘指令所周辺を視察してぞっとした「密林の山中にこもって、飢餓に瀕している泉兵団の兵士たちは いずれも目ばかり白く凄みを帯びて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も 生きながらの屍である、地獄絵のような凄愴な形相である、その上 丸腰で 武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」これは先遣の重松大隊の傷病兵か井上大隊かと思われる
12月6日
  第3大隊は6日夜「予定通り突入」という報告を師団司令部へ
午後8時白井垣春少佐の指揮する空挺第3聯隊(香取隊)260名は39機に分乗ブラウエン及びサンパプロ飛行場に降下、第3大隊の南ブラウエン飛行場への斬込みは4~5人単位の斬込み隊40組が突入したが、成功せず7日夜も突入を復行滑走路付近の天幕 高射砲の破壊など 16師団突入のブラウエン北飛行場とともに第一線の心血をつぎこんだ我が空地協同の和号作戦はかくて相当の成果を収め、ブラウエン両飛行場は確保した26師団の僅かな生還者の話では、第3大隊将兵は出発時に自分の持っている幕舎まで焼いて帰らぬつもりで出発した。しかし斬込み後若干は帰ってきましたが この兵隊たちは飢餓のためもう体力の限界で動けない者が多かったと聞いている
7日
  中村高級参謀が「ルビ」に帰来し「第26師団は昨6日夜先遣重松大隊の一部が夜襲に向かったのみで師団全体では動いていない旨」報告した
7日未明~8日後半には空挺第3聯隊 第16師団 重松大隊との連絡が成り共に行動した 8日
  朝 軍戦闘指令所に田中方面軍参謀 26師団峰尾正生参謀到着 田中参謀は「重松大隊の位置まで行った 第26師団主力は7日の斬込みには間に合わなかった」と報告
9日
  7日払暁 米77師団2個聯隊デボジト逆上陸に伴い軍司令官は「戦闘指令所は9日朝反転」と決意し峰尾参謀に「第26師団は一部を以て ブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護爾後すみやかに 主力をもってオルモック平地に転進 上陸中の米軍を攻撃 16師団の収容の命令を下す」
9日
  師団が反転を命ぜられたのは9日で 先遣の重松大隊は師団命令でこの地に残留 イピルを出発して 1ヶ月経っており飢餓と体力の消耗 且つ弾薬の補給も皆無の中 殿軍として追求の米軍をこの地で阻止する 任務を与えられた 白井聯隊長の手記には「18日重松大隊とマタグバ東北4キロ 付近ジャングル中にて遭遇せり」とある
18日
  白井聯隊長の手記から「その後重松大隊と共に西進した 重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であった」と記述されている 当時何名位であったか 記述はないが恐らく100名以下ではないかと考えられる。和号作戦参戦の 高千穂降下部隊 26師団 16師団の生還者は皆無のため真実は不明である
22日
  その後重松大隊と行動し 22日287高地で野中大隊と合致す
28日
  軍参謀 高橋公平少佐の証言によれば 26師団重松大隊長 高千穂降下部隊 白井聯隊長は12月28日まで287高地で追撃の米軍と交戦している その後白井聯隊長出発後 重松大隊も転進を開始 米軍の迫撃と交戦しながら後衛尖兵としての任務を果たしての転進は難渋を極めた この時期に於ける大隊の戦力は3分の1に過ぎなかったと言われている
道無き脊梁山脈西方の山腹を斜行 マラリア等の病魔 栄養失調と斗い ながら多くの谷越え 岩攀りを強いられながら オルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた オルモックも既に日本軍は撤退しておりダナオ湖経由一路 カンギポット目指し 苦難の転進は続いた周辺は26師団主力が転進して行った跡で各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられるといわれる。のちに この転進街道を白骨街道といわれるようになった戦史によると高千穂降下部隊は28日夜出発脊梁山脈 西方を転進1月19日にはリモン南方地区にて本道を突破 25日星兵団着 26日尚軍司令部に到着 2月4日白井聯隊長は陣没されている

20年
2月初旬
  第3大隊 カンギポットの師団司令部に到着(東嶋大尉から 何名位到着したか聞いているが 失念しており 恐らく数 十名と思われる)
3月頃
  第3大隊は泉師団自活自戦地域 シラットに移転4月10日の戦闘で第10山本中隊長 戦死
4月
  自活自戦 当初は転進途中で日本軍の遺棄食料を拾得し且つ師団より若干の分配を受け凌いでいたが 次第に底を尽き 5月頃から毎日潮汲と食料捜しの毎日であったらしい
5月
  この時期 多くの将兵が飢餓と病魔で戦死
6月10日
  父は軍刀にて自決 それもその時マラリアと栄養失調で力無く銃声も周囲への 影響を考え軍刀で喉を突き立てたといわれている 簡単な遺言と多くの部隊将兵を戦死させたと男泣きしながら、私が思うに恐らく肌身離さず持っていた 私達兄弟の写真と手紙を握り締め生粋の軍人として雄々しく死を迎えたと思うこの最後は師団司令部に報告され 当時の生存者が一様に留守宅への責務と考え伝え合い戦後 痛ましい戦傷で辛うじて復員された東嶋大尉様からお知らせ頂いた
26師団司令部付兵器勤務隊の出納官吏曹長 山森三平氏(生還者)の著書に次の記述あり 生還者 山森三平氏の手記から
5月末頃と断り書きあり 26師団はカンギポット山の洞窟が所在であった 加藤参謀長を中心とする今堀聯隊 工兵聯隊の一部に過ぎない。眼下の小道を行く今堀聯隊の軍旗である 先遣は将校か准士官の指揮する前衛一個分隊くらい それから50メートル程遅れて軍旗を護衛する下士官3名と記憶する。軍旗は軍旗覆に包まれていたが聯隊旗手の足取りは軽かった。その後を行く聯隊長は杖を付いていて、ちょっとよろめく足取りであった。 その後は東嶋大尉である この大尉はあまりよく知らない・・・・・・・・東嶋大尉の後には約30名程の将校 下士官兵が続く 最終が品川工兵聯隊長以下約10名 粛々200名という ところか

26師団13,000名が加藤師団参謀長を含めて200名が生存と記述されている



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