玉津丸



上田毅八郎
船名 玉津丸
所属 大阪商船
総㌧数 9589㌧
処女航海 1944.02.13
輸送指揮官 安尾正綱大佐(13連隊長)
船長 生出勝衛
乗員 4820名
上陸作戦用特殊船で大戦を通じて十隻建造された内の一隻。別名「MT船」と呼ばれ船内に大発動艇又は小発動艇を格納しており建造当初から軍機密扱いで船会社自身もタッチ出来なかったため船員達の間では「幻の船」「おばけ船」等と呼ばれていた。
重松氏から頂いた資料より
ヒ71船団
速吸 能代丸 阿波丸 旭東丸
帝津丸 北海丸 帝亜丸 二洋丸
あづさ丸 玉津丸 摩耶山丸 第2八紘丸
伊良湖 吉備津丸 香椎丸 瑞鳳丸
鴨緑丸 日昌丸 能登丸 永洋丸
護衛海軍船団(護衛指揮官 梶岡定道少将)
大鷹 藤波 夕凪 倉橋 平戸 御蔵 昭南 第十一海防

乗船部隊 計15ヶ部隊が乗船

航程
昭和19年
08月04日
泉師団将兵を除く14ヶ部隊将兵が乗船し門司港を出航し釜山港へ
08月06日 泉師団乗船後 釜山出港(06時25分)再び内地伊万里港へ
08月06日 伊万里港で投錨 伊万里魚市場の直ぐ前で久し振りの内地の様子を海上から見て全員望郷の念に駆られる
08月10日 本船団を"ヒ71船団"と称し(フィリピン航路の71番目)伊万里港出港(06時25分)一路南下するのではなく北支那海に向けて大きく迂回航路を航行
08月15日 折からの台風を避けて台湾馬公港に寄港(18時)
08月17日 08時マニラに向けて出港
08月19日 バシー海峡 北緯18.49 東経119.47(ボヘヤドール岬西北西90k)米潜水艦スペードフィッシュの魚雷2発に被雷10分後に全没
宇野氏(能登丸船員)の著書によると、能登丸など助かった船の一部は敵潜水艦の攻撃を巧みに回避し続けフィリピン沿岸伝いに徹底的な接岸航法を取り辛うじてマニラへすべり込んでいる。今回の乗船部隊には、補充が間に合わない救命胴衣の代用品として、長さ1㍍余りの青竹(直径5㌢の孟宗竹)が渡されていた。
乗船者数
乗船部隊総員 4,459名 生存者53名
船舶砲兵等 226名 9名
船員 135名 3名
4,820名 65名
甲板員吉川氏、東畑氏は救命ボートを操作し乗船部隊員43名を救助し4日間漂流後、護衛艦に救助される。第155飛行場大隊のご遺族平山氏の調査によれば、上記東畑氏は救助後おりんぴあ丸に乗船勤務中、昭和19年9月24日米軍機の空爆により海没戦死。
泉師団将兵の生還者は3名(12日間漂流後救助生還)

台湾最南端の猫鼻頭にある潮音寺(昭和56年"中嶋秀次氏"が日台仏教関係者の支援と私財を投入し建立)

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玉津丸関係資料、書籍



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