過去の掲示板
2007年8月16日 (木) 05時08分16秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
坂田佐和子様へ
もうすぐ8月19日、玉津丸乗船者の63回目の命日を迎えます。改めて哀悼の意を捧げます。
このプログに投稿頂いた方や直接 私宛メールを頂いた方はここ1年で10名近くになります。
私なりに資料を提供するため再度 調査資料も収集しました。今年最後となります静岡の護国神社で開催の
独歩第13聯隊慰霊祭場(玉津丸 及びレイテ島で玉砕)
にその資料を持参、関係者に配布すべき準備しています。本投稿欄にメール名を名乗っていますから
ご所望ならば連絡ください
2007年8月15日 (水) 10時23分22秒
[名前] : 坂田佐和子
[URL] :
[コメント] :
重松様へ
先日よりいろいろ相談にのっていただきありがとうございました。図書館に県庁いろいろ調べだいだいのことを知ることができました。そこで祖父は伊万里から出航したようで、どこの港なのか先週調べに行ったのですが市役所の方もわからず、おそらく浦の先からでて沖に停泊する玉津丸に乗り込んだのだろうと言うことでした。残念ながらその場所は造船場になっていて入ることができず、できれば祖母をその場所に連れて行きたいと考えていましたが叶わぬ願いとなりました。認知症が進み孫の私を娘と勘違いしている祖母ですが、今まで知り得た祖父のことを話すと涙を流し、「自分には、もったいない人だった。何でも出来て良い人だった。」と話してくれました。
これ以上情報を得ることはもう無理かと思いますが、本当に調べてみて良かったと思います。これも重松さんのおかげです。本当にありがとうございました。
2007年7月26日 (木) 06時25分40秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
悪戯の書き込みが多いので、「投稿されたコメントの掲載承認」を有効にします。★コメントを承認してから反映する設定にしている場合、コメントを投稿すると「承認手続が終わりましたらコメントが反映されます」というページが表示されます。管理者が承認してからコメントが掲載されるので、時間がかかります。
2007年7月17日 (火) 19時56分40秒
[名前] : 磯野
[URL] :
[コメント] :
重松様、色々とお調べ頂きありがとうございます。
墓石には昭和19年8月19日になっていたと思います。あまり祖母も話したがらないし、父も思い出してもかえってくるわけでもないと、あまり触れたがらないのですが、孫である私は、硫黄島からの手紙を観て以来、亡くなった祖父はどうだったんだろう?また、祖父の弟が先日の靖国神社みたま祭り参拝をはじめて身内から参りに行ったという事もあり、色々調べていたら、ここにたどり着いた次第です。今を生きる私達は、2度と繰り返してはならないし、自分の子供たちにも伝えていかなくてはと思っています。
まずは、県に問い合わせてみたいとおもいます。
どうもありがとうございます。
2007年7月17日 (火) 09時42分55秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
磯野様 1日早く帰宅しました
確定的なことは申せませんが泉師団の玉津丸戦死者
名簿には記述がありませんでした
①お尋ねしますが戦死日は 19・08・19 所属部隊は
泉師団となっていますか
②部隊名不明ならば愛知県庁 健康福祉環境部
福祉政策課(県により多少名称が違う)に問い合わせてください お祖父様の戦死までの軍歴が判明します
2007年7月17日 (火) 09時19分32秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
2007年7月15日 (日) 12時51分08秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
7月15日投稿の磯野様へ
先ず戦死なされた ご英霊に慰霊鎮魂の誠を捧げます。
お祖父様は愛知県ご出身で玉津丸に乗船とあれば
第26師団(泉)通信隊か又は泉師団独立歩兵第13聯隊第2大隊と思われます。
今は靖国神社みたま祭り参拝を兼ねて茨城県に滞在
(子供の所)、上記泉師団の将兵ならば判明します
(戦死者名簿から)
17日(火)には帰宅しますので改めてメール回答します
2007年7月15日 (日) 00時22分36秒
[名前] : 磯野
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。祖父がバシー海峡で戦死していまして、名前を磯野美義といいます。享年26歳でした。詳しい事は、一切分かりません。愛知県豊橋市石巻町出身です。どなたかご存知の方がもしいらっしゃったら、お教え下さい。よろしくお願い致します。
2007年6月30日 (土) 10時23分34秒
[名前] : 乃木邦典
[URL] :
[コメント] :
始めまして、島根県隠岐郡隠岐の島町に住んでおります乃木と申しますよろしくお願いいたします。
私の父、乃木勝雄は玉津丸に一等運転士として乗り組み昭和19年8月19日に米潜水艦の攻撃によりバシー海峡で亡くなりました。昨年偶然インターネットで玉津丸のキーワードで検索していましたところ多数のデータを見つけました。玉津丸に乗船されていた方々の大半は泉五三一六部隊の関係者で遺族会などもあるようですが、玉津丸に乗船しておられた大阪商船職員また遺族の方がいらしゃいましたらぜひ情報をお願いいたします。
685-0104島根県隠岐郡隠岐の島町都万3564
乃木邦典
050-7570-2679
2007年5月27日 (日) 22時07分33秒
[名前] : 坂田
[URL] :
[コメント] :
度々ご丁寧なお返事をいただき、本当にありがとうございます。早速、県庁に問い合わせてみます。
2007年5月27日 (日) 06時04分25秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
失礼しました
お父上は佐賀県のご出身ですから佐賀県庁に問い合わせしてください
2007年5月27日 (日) 06時04分25秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
失礼しました
お父上は佐賀県のご出身ですから佐賀県庁に問い合わせしてください
2007年5月27日 (日) 05時58分31秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
父の命日も近いことから靖国神社参拝を兼ねて上京
今 茨城県のつくば市の子供の所からメールしています。歩兵第48連隊は久留米の歴史ある郷土部隊ですが玉津丸には乗船していません。お父上の属された部隊戦跡を調査されるには、戦死公報を受けとられたときの県庁(福岡県)の社会福祉部に問い合わせしてください
書類にて日付順に経緯を知らせてもらえます
同じ久留米市内の方で第139飛行場大隊の方もおられますので恐らくその可能性が高いと思います。
2007年5月25日 (金) 23時22分17秒
[名前] : 坂田
[URL] :
[コメント] :
度々申し訳ありません。祖父は福岡県久留米市の部隊にいたようなので、おそらくは、48連隊ではないかと思われますが、玉津丸に乗船していた13ケ部隊にその部隊はありますか?もし13の部隊の名前をご存知でしたら教えていただけないでしょうか?よろしくお願い致します。
2007年5月23日 (水) 22時05分56秒
[名前] : 坂田
[URL] :
[コメント] :
お返事ありがとうございました。祖父が所属していた部隊の名前がはっきりすればもう少し調べようがあるかもしれないのですが、九州の人がほとんどなんですね。祖父は私の父が小学校入学を前に出兵され、父は福岡県久留米市にあった宿舎に真新しい小学校の制服を着て慰問に行ったその時の記憶だけがずっと残っているらしく、四年前に偶然宿舎近くの病院に入院したことで、再び幼いころに失った父のことを考えるようになったようです。今回父と寝たきりになってしまった祖母に代わって孫の私がいろいろ調べ歩いているのですが、その結果出てきた祖父の最後を知るたびにつらく悲しく涙があふれてきます。父ももういいからと言いますが、戦争の怖さ、悲しさ・・・を知らない、私達若い世代が、本当の戦争の姿を知り、次の人達に伝え続けていくことが祖父の供養になるのでわないかと思っています。遺骨もないまま時に本当に亡くなっているのかすら疑いたくもなりますが、祖父が生きていた証しを出来る限りみつけていくつもりです。重松さん、ありがとうございました。
2007年5月23日 (水) 09時52分18秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
5月22日投稿の佐賀県の坂田様へ
玉津丸には船員を含む4820名が乗船、海没後救助されたものは65名と厚労省の残存資料に記録があります。
乗船部隊の主力は独歩13連隊ですが、第139飛行場大隊、第155設営隊等13ケ部隊が乗船しています。
本プログ等がご縁で私から資料を提供したご遺族は
10名近くになりますが独歩13連隊(静岡県の郷土部隊)を除き全て九州地区出身者でした。
13連隊を除き他の乗船部隊は新規編成後短期間で海没
戦死されていますので部隊史及び記録なども無く
ご英霊の一人一人の情報は今となっては難しいと思います。同じヒ71船団の僚船に乗船し玉津丸の海没を目撃した方の記録は10冊、玉津丸から12日間漂流後奇跡的に生還された方3名(一部は本HPに掲載)の慰霊追悼集は5冊あります。以上の資料でよろしければ私個人のメール宛連絡ください。ma-shige@sakai.zaq.ne.jp
2007年5月22日 (火) 23時13分09秒
[名前] : 坂田勝
[URL] :
[コメント] :
祖父は佐賀の出身で玉津丸に乗り戦死しています。農家の長男だったこともあり遅くに徴兵され、その後すぐに海没したことになっています。祖母は91歳になりました。元気なうちに祖父のこと何でもいいので伝えることができたらと思い、今、必死で情報を探しているところです。祖父の名前は坂田勝と言います。この名前に聞き覚えのあるかたはいらっしゃいませんか?
2007年5月15日 (火) 06時40分53秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
5月14日投稿の正治様へ
メール拝見しました。独歩第13連隊は主として静岡県
出身者で編成された郷土部隊ですが、ルソン島上陸後19年8月大阪地区出身者(500名)で海没した第2大隊が補充再編成されています。17年1月の写真が存在
とのことですが当時部隊は中国戦線北支厚和地区で
戦闘警備についております。部隊幹部や下士官には
他府県出身者もいますので、この双方が考えられます
取りあえずご英霊のお名前と戦没地を教えてください
私のメール ma-shige@sakai.zaq.ne.jpでお待ちしています
2007年5月14日 (月) 22時29分39秒
[名前] : 正治
[URL] :
[コメント] :
始めまして。兵庫県在住の者です。昨年より戦死したお爺さんの事で色々調べていると護国神社に戦死者の名簿があるとネットで知りました。そして、地元の姫路護国神社に行ったのですが名簿は無く、「昔住んでいた本籍地で管理している」と教えて頂きました。そして、戦前住んでいた大阪護国神社の方に行きようやくお爺さんの名簿を見つける事が出来ました。
そして、名簿から所属部隊も独立歩兵第十三聯隊という事を知り独立歩兵第十三聯隊について調べてみるとココに辿りつきました。お爺さんは、長男で軍隊には入っていなかったのですが昭和17年以降に独立歩兵第十三聯隊に入隊した様です(昭和17年1月の家族の写真が残っています)。
レイテ島での戦いは「レイテ戦記」で読みました。でも、もっと独立歩兵第十三聯隊について知りたいと思っています。情報ヨロシクお願い致します。
2007年5月10日 (木) 14時05分24秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
4月24日投稿の駒田様へ
厚労省にあります資料によれば玉津丸乗船部隊は13ケ部隊4900名が乗船、その中に仮編独速砲19大隊が乗船とあります。乗船部隊の中心は独歩13連隊の連隊本部と第2大隊並びに師団通信隊です。記録によれば救助されたものは65名とあり、本HPに記述がありますように中嶋様 浅井様 稲葉様が戦後 救助されるまでの
漂流生還記を発表されました。
玉津丸と同じヒ71船団で他の輸送船に乗船した方の
目撃談など短編ですが記述された戦記本は10冊近くあります。本投稿欄に書き込みが縁で私から資料提供した方は過去6名おられます。もし以上の資料でよろしければ 提供いたします
私のメール ma-shige@sakai.zaq.ne.jp にてお待ちします
2007年5月10日 (木) 12時39分20秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
2007年4月24日 (火) 23時19分45秒
[名前] : 駒田重一郎
[URL] :
[コメント] :
はじめまして
私は還暦を機に気になっていた父のことを調査していたところこのホームページにたどりつきました。
母親は現在88歳ですが元気に生活致しております。
父の戦死状況については詳細な事は昭和20年に
バシー海峡において死亡の通知が来て初めて
母が知った状態でした。
生まれて間もない私には何の記憶ももちろん
ありませんでした。
死亡告知書には
駒田 芳二
昭和19年8月19日 4時40分 N19.20 E29.25
所属 速射砲19大隊(仮編独速砲19大隊のことでし ょうか)
当時父は砲兵隊下士官でした。
玉津丸に乗船していたかどうかもまったく
不明です。
沈没原因も機雷なのか魚雷なのかも国も把握は
できていなかったようです。
独立歩兵第十三聯隊(泉五三一六部隊)の事は
私も存知ませんのですが父も乗船していたのでは
ないかと思い何か分かる方や資料があればと思い
書き込ませて頂きました。
情報があれば宜しくお願い致します。
2007年1月6日 (土) 07時09分23秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野様
明けましておめでとうございます
お父上の部隊は第139飛行場設営隊でしたか、確かに海没した玉津丸に乗船しています(厚労省の残存資料から)門司港で乗船し一旦朝鮮釜山港で独歩13連隊
将兵1500名が追加乗船、その後九州伊万里港に寄航
停泊した海上から伊万里の魚市場が遠望されたそうです。この船団をヒ71船団と称しています
12日間海上を漂流し生還された方3名の手記は蔵書
しています。私家版ですので市販はされていません
尚この船団に関する(玉津丸を含む)記述戦記本は10冊近くありますが このうち何冊かは時々古書店に
見かけることもあります。
139設営隊は部隊新規編成後に海没していますので
固有の資料は余り無いかと思います(改めて調査すれば幹部の氏名 部隊人員数位は判明します)
ご所望ならば生還者の手記、ヒ71船団の記述関連の本
をコピーして送付します。
私のEメール ma-shige@sakai.zaq.ne.jp にて
お待ちしています
2007年1月5日 (金) 23時18分35秒
[名前] : 萱野
[URL] :
[コメント] :
重松様、お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか?今年の3月に玉津丸のことで、掲示板に掲載させていただいた萱野です。父の部隊名が分りました。139飛行場設営隊でした。門司港から乗船したとのことでした。ネットで調べたところ、バシー海峡での漂流記等の著書もあるとのことで書店に問い合わせてみましたが、何分にも古いことなので、廃盤になっているとのこと、手に入れることができず残念でした。どこか貸し出しでも、読ませて頂けるところはないでしょうか?
2006年12月23日 (土) 18時53分21秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
稲葉様ありがとうございます。更新は中々出来ないかと思いますが出来る限り続けていきます。
2006年12月17日 (日) 00時26分25秒
[名前] : 稲葉
[URL] :
[コメント] :
管理人様こんにちは。稲葉です。
掲載は構いませんよ。
貴重な実体験記なので、多くの方に読んでいただけたらと思います。
最近「父親たちの星条旗」 「硫黄島からの手紙」
を見てきました。
いずれも史実なので、心に伝わるものがありました。
悲劇は二度と繰り返してはならない、改めて思います。
このホームページが末永く続くことを願っております。
2006年12月11日 (月) 14時36分04秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
稲葉様へ
はじめまして当ホームページの管理人です。
まず、ご尊父様のご冥福をお祈りいたします。そして許可も無く文章を載せまして申し訳ございませんでした。少し前に、このページの内容を中傷する様な書き込み&メールが来てからは殆ど管理人らしき事はしておりませんでした。
私としましては、このまま掲載したいと思っているのですが稲葉様のご意向通りに致しますので、お手数ではありますが、この掲示板か@yahoo.co.jp←こちらのメールでご意向を教えて頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
2006年12月10日 (日) 14時05分00秒
[名前] : 稲葉
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。こんにちは。稲葉彦男の実子です。
他のものを検索していたら、ここを見つけました。
父が書いた漂流記が、ネット上に公開されていること非常に驚いてます。
その父も他界して、早7回忌を迎えました。
経年と共に人の記憶も薄れるものですが、文章に或いは写真にと忘れられる事無く後世に伝われば良いと感じます。
取りとめのない文章ですが、失礼致します。
2006年10月29日 (日) 19時27分27秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
28日投稿の茨城県の方へ
本掲示板の9月25日欄に同じ玉津丸ご遺族に対し
私が回答しています。Eメールも表示しています
本HPを作成(管理人)して頂いた方とは私は
別人です
2006年10月29日 (日) 19時26分45秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
28日投稿の茨城県の方へ
本掲示板の9月25日欄に同じ玉津丸ご遺族に対し
私が回答しています。Eメールも表示しています
本HPを作成(管理人)して頂いた方とは私は
別人です
2006年10月29日 (日) 18時57分25秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
2006年10月29日 (日) 15時10分08秒
[名前] : 28日投稿したものです。
[URL] :
[コメント] :
重松様、はじめまして。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
玉津丸に関する資料があるのでしたら、頂戴したいです。
父も祖父の死に関することは死亡場所と時間しか知りませんのでいろいろと知りたいはずです。左のブルーリボンの下の“管理人”のところをクリックしてみましたがアクセスできないようです。その他、アクセスできる方法ございますか?
2006年10月29日 (日) 13時25分11秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
10月28日付け茨城県の方へ
米潜の魚雷攻撃で海没した玉津丸について厚労省 残存の行動調書に下記の如く記述されています
遭難日時 昭和19年8月19日4時40分
場所 N17度30分 E119度21分
バシー海峡西方
輸送指揮者 安尾正綱大佐(独立歩兵13連隊長)
乗船総数 4,459名 内生存者数 船員2名 軍人44名
乗船部隊 26師団主力、独重砲4大隊、仮編独速砲
19大隊、大70飛中、南方燃料本部、
野戦貨物廠、18航空地区司令部、
139飛行場設営隊、その他南方軍の
5部隊が乗船しています
乗船部隊のうち最大の部隊は上記26師団主力(独立歩兵第13連隊 連隊本部 第二大隊及び通信隊)1,500名が
戦死、よって3,000名は26師団を除く上記部隊の方々
です。
当時南方戦線への輸送は危険分散の為に(同じ部隊将兵が同一の船に乗船して海没すれば部隊は消滅)分かれて乗船しており、第26師団13,000名は6隻の輸送船
に分散しています。
もし資料など必要ならば私宛Eメールください
本投稿欄前の欄に私のメールが表示されています
2006年10月28日 (土) 22時08分32秒
[名前] : 私の祖父
[URL] :
[コメント] :
私の祖父は死亡告知書の内容(船の沈没場所、沈没の時間)から乗っていた船は玉津丸でほぼ間違いないであろうという結論に達しています。しかし、玉津丸は静岡県の郷土部隊が乗船する船ということですが、私の祖父は茨城県の出身で静岡県とは縁もゆかりも無いはずです。その祖父が、なぜ、玉津丸に乗船していたのか残されている資料も少ないようで分からずに居ります。そのような事実は確認されているのでしょうか?何かお分かりになることがございましたらお教えください。宜しくお願い致します。
2006年9月25日 (月) 09時39分08秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
独立歩兵第13連隊のご遺族及び5316会会員の皆様へ
去る18年9月23日(土)静岡市柚木の静岡県護国神社に於いて第49回目の慰霊祭が実施されました。
顧みますと昭和33年9月 第一回の慰霊祭を実施されて以来毎年、彼岸の中日に遺族関係者が相集い慰霊碑前
あるいは奉安殿で実施され、最盛期には千人単位の境内に溢れる参拝客で盛会でしたが、日時の経過とともに関係者の死去或いは老齢化に伴い 参拝者も少なくなり明年の節目の50回を以って会も解散することになりました。
以降は組織だった慰霊祭でなく自主参拝と致します
前鈴木5316会長 現石上会長並びに会の運営に長年に亙ってご尽力頂いた各位に遺族の一人として深く深く
感謝いたします。明年は最終回となりますので 挙って
ご参拝いただけるようにお願いいたします
2006年9月25日 (月) 05時56分41秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
平山様へ パソコンが故障し中断 大変失礼致しました
お尋ねの件にお答えします
①日本遺族会主催の巡拝団に参加する
お近くの遺族会にお尋ねください 戦没地域別に毎年
4月頃巡拝計画が発表されます。バシー海峡は昨年は
実施されました 参加資格は戦没者の遺児に限ります
②厚生労働省主催のの巡拝団に参加
戦没地域別に広く巡拝団が行っていますのでバシー海峡巡拝団もあるかと思います。住所地の市町村役場の
健康福祉部(市町村により若干名称が違う)に問い合わせしてみてください
③バシー海峡戦没者遺族会があります
台湾の最南端 猫華頭に「潮音寺」という慰霊碑があり
玉津丸から生還された中嶋秀次氏が中心となり関係
遺族の寄進で建立されています
昨年も巡拝団参加のお誘いを私は中嶋氏から2度受けています。遺族会が巡拝した慰霊集「海ゆかば」や関係本は10冊近く蔵書しています
私のEメールはma-shige@sakai.zaq.ne.jp です
2006年9月20日 (水) 18時58分16秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
平山様
先ず戦死なされた ご英霊に慰霊鎮魂の誠を捧げます。
玉津丸には比島戦線への増援部隊4400余名が乗船、
独立歩兵第13連隊、連隊h
2006年9月16日 (土) 22時40分24秒
[名前] : 平山亮介
[URL] :
[コメント] :
初めて書き込みします。私の父の父親が玉津丸に乗船して戦死しています。まだ幼かった私の父は本当の父親の顔を知らないまま自分の父を亡くしました。その私の父ももう60を過ぎました。60年間、父は海に沈んだまま遺骨も戻らない父親の事を想い続けています。掲示板を見ていたのですが、玉津丸が沈没した台湾、バシー海峡方面への慰霊巡拝はありませんか?機会があれば是非私の父を参加させたいと思っております。何か情報がありましたら、教えて下さい。宜しくお願い致します。
2006年8月4日 (金) 23時34分13秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
続き
なおこのとき辛うじて無傷のままマニラ港に到着した「能登丸」
「麻耶山丸」「香椎丸」「日昌丸」は8・27台湾に向けて帰途に
つき30日午後ガランビ岬西方海面で 多くの漂流物を発見、護衛艦が
確認したところ先に海没した玉津丸の乗船将兵2,000名が漂流と
この本には書かれています。海没後12日間不撓不屈の精神力と
体力で生き抜いてきたが収容後その殆どは最後を遂げたとあります
詳しくは「慟哭の海 」浅井栄資著 昭和60年刊行 352p
「雷跡!!右30度」宇野公一著 昭和52年刊行 287p
ほか 数冊に詳しく記述があります
お近くの図書館にあるかと存じます。
私の父は上記「香椎丸」に乗船、マニラ上陸後 軍事ハガキにて
武運目出度目的地に到達スルモ・・・・生還は期シガタイ
と最後の手紙が来ています。当時はルソン島とは分らず
漠然と南方戦線であろうと思っていました。
2006年8月4日 (金) 23時33分32秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
掲示板をこちらに戻しました。
↓以下転載
ヒ71船団玉津丸 海没
2006年5月1日 10:35:44 重松 正一
改めて玉津丸について記述します
同船団は19・8・10 0500寄り抜きの高速商船と油送船20隻が梶岡少将の指揮する護衛空母「大鷹」駆逐艦2隻海防艦5隻計8隻に護衛されて九州伊万里湾を出港、途中台湾馬公に寄航、海防艦等を増強し
船団を再編成 8・19 0430バシー海峡で玉津丸(9589総トン)は
右舷機関室に魚雷2発命中、10分後船首から沈没、独歩13連隊
主力を含む乗船陸兵4,406名が海没、海没将兵救助のため現場に
残った海防艦「佐渡」「松輪」「日振」も雷撃を受けて海没しています。この船団を攻撃したのは米潜「ラシヤー」「ブルーフィシュ」「スペイドフイッシュ」と記述があります。
結局この船団はその編成といい護衛の陣容といい まさに鉄壁の威力
を誇ったが商船14隻護衛艦8隻が悲惨な末路を遂げています。
続く
2006年3月25日 (土) 09時49分59秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野様
米潜の魚雷で海没した玉津丸には泉師団独歩13連隊 連隊本部 及び第二大隊1800名と他の部隊を含めて4000名
が乗船(本によっては5000名と書かれているものもあります)。私の収集は泉師団を中心に50年かけて実施しましたので 同師団関連は沢山あります
浅井さん中嶋さん稲葉さんの12日間の漂流生還記も蔵書しています(HPで紹介されているもの)
当時 危険分散の意味から同じ部隊といえども分散
乗船しています
飛行場設営部隊とのことですが詳しい部隊名が分かれば更に詳しい方に調査をお願いしてみます
私のメールは ma-shige@sakai.zaq.ne.jp です
2006年3月25日 (土) 01時40分31秒
[名前] : 萱野喜代子
[URL] :
[コメント] :
重松様
久ぶりに玉津丸のホームページを開きましたら、重松様からのコメントが掲載されており、感激しております。今回参加された方は、23名で全国から集まっておりますが、玉津丸で戦死された方が4~5名降りました。私の父は大分の部隊だと思われますが、何処から乗船したかは、分りません。野戦飛行場設営部隊とかで、今度一緒に行かれた熊本の方の父上同じ隊でした。重松様が詳しい資料をお持ちでしたら是非、お分け頂きたいです。父は29歳戦死していますので、私は
父の顔を知りません。どんなこととでも、かまいません。教えてください。お願いします。
2006年3月9日 (木) 18時15分37秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野喜代子様へ
日本遺族会主催の慰霊友好親善訪問団(通称 遺児巡拝団)に参加巡拝されたそうで、ご苦労さまでした。
関係者の一人として私からも厚く御礼申しあげます。
遺族会から詳細な資料を貰われた事と思いますが
泉師団独歩第13連隊 連隊本部、及び第二大隊を主体に4000 名が乗船したヒ71船団 玉津丸は敵潜魚雷攻撃により安尾連隊長 連隊旗と共に海没、事後100名近くの
生存者が竹筏につかまり浮上していたと記録にあります。早期に発見救助された尾崎大尉以下10数名は本隊を追求 レイテ戦に参加全員戦死されました。
12日後 海防艦「昭南」に救助されたのは 中嶋秀次氏 浅井芳郎氏 細沢彦男氏を含む4名です。
「昭南」は台湾に寄航 皆さんは戦後それぞれ慰霊集
追悼集を自費出版されています
尚海没戦死された英霊の慰霊碑は台湾(最南端)
猫鼻岬「潮音寺」にありことしも巡拝団が訪れて
います。部隊は静岡県の郷土部隊ですので萱野さんも
静岡県下在住の方ではありませんか
更に詳しく資料などご所望ならば本ページに書き込み
下さい 私のEメールをお知らせいたします
2006年3月9日 (木) 17時26分48秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野喜代子様へ
日本遺族会主催の慰霊友好親善訪問団(通称 遺児巡拝団)に参加巡拝されたそうで、ご苦労さまでした。
関係者の一人として私からも厚く御礼申しあげます。
遺族会から詳細な資料を貰われた事と思いますが
泉師団独歩第13連隊 連隊本部、及び第二大隊を主体に4000 名が乗船したヒ71船団 玉津丸は敵潜魚雷攻撃により安尾連隊長 連隊旗と共に海没、事後100名近くの
生存者が竹筏につかまり浮上していたと記録にあります。早期に発見救助された尾崎大尉以下10数名は本隊を追求 レイテ戦に参加全員戦死されました。
12日後 海防艦「昭南」に救助されたのは 中嶋秀次氏 浅井芳郎氏 細沢彦男氏をふくm
2006年3月7日 (火) 01時09分25秒
[名前] : 萱野 喜代子
[URL] :
[コメント] :
はじめまして
私の父はこの玉津丸に乗っていた一人です。先日、日本遺族会の募集で台湾・バシー海峡方面の慰霊巡拝があり参加しました。このとき頂いた資料で初めて、父が玉津丸に乗船し、戦没したことを知りました。少しでも多くのことを知りたくてこのページを開きました
2006年2月26日 (日) 20時36分19秒
[名前] : レイテ島地すべり災害
[URL] : http://ch767.sakura.ne.jp/0602222248505.jpg
[コメント] :
半年振りぐらいに書き込みます・・・レイテ島の事なので気になっていたのですが、遺族会などの窓口が見つからず何もしていませんでした。しかし数日前チャンネル桜で義援金募集のお知らせを見つけまして、僅かではありますが義援金を送りました。
2005年9月22日 (木) 15時11分20秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
明日は行けないと思います。。。スイマセン。
本当に偶然、今日仕事の関係で静岡へ行く用事が有りましたので護国神社へ行きましたら、十三連隊殉国碑の前にテントが張って有りました。九月初めには、これも仕事関係で東京方面へ出掛けたので靖国神社へ行って来ました。遊就館は立派で凄い展示品が色々ありましたが やはり自分にとっては静岡護国神社の遺品館の方が心に残る品が数沢山あります。
2005年9月20日 (火) 07時55分16秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
たーちゃん様
10日間ほど東京方面に出かけており 失礼致しました
5314部隊関係者の由 過去私も名古屋 相応寺の慰霊祭
に参拝、泉会(泉師団遺族会)にも幾度となく参加していますので 多くの方を存知上げています。
お申し出での「回顧録」は仙敷様の手書きの手記ですので 特定の方しかお持ちでないと思います。
5314部隊のレイテからの生還者5名のうち これ以外に
凍雲と椰子 長坂正一著 26p
我が歌 我が戦記 榊原 博著 69p があります
何れも短編故にコピーして送付いたしますので
ご連絡ください
Eメール shige@sakai.zaq.ne.jp
2005年9月20日 (火) 07時21分22秒
[名前] : sigematu
[URL] :
[コメント] :
2005年9月9日 (金) 18時22分19秒
[名前] : たーちゃん
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。
私の兄は泉5314部隊におりましたが、何か情報はないかとこのホームページたどり着きました。ホームページ中の重松様の蔵書に「回顧録」仙敷倉三氏がありますが、この書はどこで閲覧できるのでしょうか?教えて頂けましたら幸甚に存じます。
2005年9月9日 (金) 11時14分28秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
9月6日の投稿は、いたずらと判断し削除しました。
2005年8月26日 (金) 13時50分38秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
9月23日(金)に静岡県護国神社で第48回目の部隊慰霊祭が実施されます
戦後60年の節目の年であり慰霊祭終了後 記念遺族会を開催する予定だそうです。
重松様に教えて頂きました。
2005年8月26日 (金) 13時47分08秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
あきなか様書き込み有り難うございます。
2005年8月23日 (火) 23時04分47秒
[名前] : あきなか
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。あきなかといいます。
玉津丸についての情報、有難うございました。
私の祖父の弟君も玉津丸に乗っていて戦死されたそうです。最近、祖父の遺品を整理していたら「死亡告知書」という物を見つけました。弟君が戦死されたということは、母より聞かされていましたが、我が家では、そのことについてはタブーであり、話を聞くことはできませんでした。そんな祖父も4年前に他界しましたが、久しぶりに祖父に会えた気がします。
有難うございました。
2005年7月3日 (日) 07時17分25秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 NO 3
私ごとですが斉田連隊長は軍司令官と共に セブ→
ミンダナオと転進、 最終同島で戦死なさっていますが
昭和16年頃私の父が教官として勤務していた 熊本陸軍
教導学校の上司で我が家に再々お越し頂いたこと
鮮明に記憶しています。
関係戦記本では主だったもので下記があります。
○比島捷号作戦 陸軍航空作戦 防衛庁戦史研究所 刊
○落下傘部隊 秋本 実著 R出版
○レイテ作戦の記録 田中賢一著 原書房
○大空の華 田中賢一著 芙蓉書房
○高千穂降下部隊 田中賢一著 原書房
○大いなる賭 田中賢一著 学陽書房
○あヽ純白の花負いて田中賢一著 学陽書房
〇陸軍航空の鎮魂 航空碑奉賛会 刊
その他 大村大尉、斉藤中尉 香川准尉 鈴木報道班員
等 生還者の手記(週刊誌)10点ほどあります
以上ですが何かお申し出であれば記述お願いいたします
2005年7月2日 (土) 14時05分54秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 NO 2
ブラウエン北飛行場 白井第3連隊長の指揮する204名
ブラウエン南飛行場 第3連隊桂大尉指揮の70名
ブラウエン中飛行場 第4連隊穐田大尉指揮の36名
同日上記以外に第3連隊 第4連隊130名がドラグ 及びタクロバン地区にも降下 戦記によれば降下は成功し
熾烈な地上戦も確認されており、北飛行場は地上軍の斬り込み進撃もあり奪還占領の大戦果を上げることが
出来ました。このことに対し後に軍司令官から感状を
授与されています。
尚ブラウエン地区に降下した高千穂部隊将兵の生還者はおりません。
このブラウエン作戦も日本軍の後方兵站基地オルモック近郷に米軍が逆上陸し数日を経て急遽中止となり
転進の命に服し白井連隊長一行10数名はカンギポット
の軍司令部に1月末到着しています。
12月8日以降は逆上陸の米軍邀撃と軍司令部擁護のため
オルモック北方バレンシアに斉田連隊長含む第3連隊
第4連隊が降下 生還者はこの中の一部です
2005年7月2日 (土) 11時38分00秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 No 1
改めて高千穂降下部隊の戦史を記述いたします。
特に高千穂降下部隊は、私の父の部隊戦史を追跡調査の過程で関係深い部隊故に大凡の戦記本は収集、又
関係者も存知上げています。
第2挺進団(戦時名 高千穂)団長 徳永大佐
挺進第3連隊(香取)連隊長 白井垣春少佐 他800名
挺進第4連隊(鹿島)連隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島)連隊長 新原季人中佐
上記3ケ連隊で編成
挺進第3連隊は
19.10.25 駐屯地を出発 九州日豊線川南駅から乗車
30 佐世保港から空母隼鷹に乗船出航
11.11 比島マニラに到着
12.06 第3連隊主力 レイテ島に落下傘降下
2005年6月17日 (金) 11時41分05秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃんさんへ
先ず ご英霊に鎮魂の誠を捧げます。
叔父上は間違いなく高千穂降下部隊第3連隊(連隊長 白井垣春少佐)に属されています
この部隊は和号作戦に参戦(垣兵団の残存部隊、及び父の泉兵団独歩13連隊第3大隊とともに空陸一体のブラウエン飛行場群奪還作戦)しています
当時レイテ島には第3連隊は300名近くが降下していますが ブラウエンに降下された方で生還者はおりません
戦後 白井連隊長(レイテ島カンギポットで戦死)の陣中日誌が第4連隊斉藤中尉の手で奇跡的の持ち帰られ
当時の戦史が判明しています。 ブラウエンに降下後
飛行場守備の米軍と激戦を展開 その後白井連隊長が
掌握した将兵は12名とあります。高千穂降下部隊の
戦記本は「高千穂降下部隊」「ああ玉杯に華うけて」などあります。和歌山県の高野山に部隊慰霊碑があり
毎年9月の日曜日に慰霊祭が実施され私も ここ10年程
連続して参拝出席しています。このメールは私の父の
60年命日に当たりますので上京し靖国神社に参拝
以後東京の子供の所に滞在し メールしています。改めて自宅に帰宅後本HPに記述します
2005年6月16日 (木) 20時48分19秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
きんちゃんさんへ
書き込み有り難うございます。
私に解る筈も無いのですが重松氏の著書の中に重松大隊の戦記が書かれています。その中に昭和19年12月6日の事が書かれていましたのでこちらに載せました。
http://www.geocities.jp/tamatumaru/1944_12_6.txt
いずれ重松大隊の戦記はホームページに載せたいと思っています。
2005年6月15日 (水) 14時32分26秒
[名前] : きんちゃん
[URL] :
[コメント] :
私の叔父は、部隊はわかりませんが昭和19年12月6日ブラウエン飛行場にて戦死という知らせを受け
遺骨はないらしいです。生前の祖母の話によると落下傘から降下したまま不明との事。金田正二といいます。どなたか叔父のことを知っている方、どんなことでもよろしいので教えてください。おねがいします。
2005年6月15日 (水) 14時22分44秒
[名前] : きんちゃん
[URL] :
[コメント] :
2005年6月10日 (金) 22時11分58秒
[名前] : マミヤ
[URL] :
[コメント] :
重松様
掲示板に小生ごときに丁重なご返事を頂き誠にありがとうございます。
当時、位牌だけが入れられて家族の元へ届けられた骨壺だけが母の唯一の思い出でしたが、このページのおかげで漠然とした「兄」の当時の状況がだんだん分かりかけて来るような気がして母も大変感激しております。
なお、母の旧姓は「水野」です。
2005年6月9日 (木) 13時47分29秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
マミヤ様へ
書き込み有り難うございます。
一人でも多くの方に泉師団を知って貰い次世代に残していければ幸いです。
2006年3月25日 (土) 09時49分59秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野様
米潜の魚雷で海没した玉津丸には泉師団独歩13連隊 連隊本部 及び第二大隊1800名と他の部隊を含めて4000名
が乗船(本によっては5000名と書かれているものもあります)。私の収集は泉師団を中心に50年かけて実施しましたので 同師団関連は沢山あります
浅井さん中嶋さん稲葉さんの12日間の漂流生還記も蔵書しています(HPで紹介されているもの)
当時 危険分散の意味から同じ部隊といえども分散
乗船しています
飛行場設営部隊とのことですが詳しい部隊名が分かれば更に詳しい方に調査をお願いしてみます
私のメールは ma-shige@sakai.zaq.ne.jp です
2006年3月25日 (土) 01時40分31秒
[名前] : 萱野喜代子
[URL] :
[コメント] :
重松様
久ぶりに玉津丸のホームページを開きましたら、重松様からのコメントが掲載されており、感激しております。今回参加された方は、23名で全国から集まっておりますが、玉津丸で戦死された方が4~5名降りました。私の父は大分の部隊だと思われますが、何処から乗船したかは、分りません。野戦飛行場設営部隊とかで、今度一緒に行かれた熊本の方の父上同じ隊でした。重松様が詳しい資料をお持ちでしたら是非、お分け頂きたいです。父は29歳戦死していますので、私は
父の顔を知りません。どんなこととでも、かまいません。教えてください。お願いします。
2006年3月9日 (木) 18時15分37秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野喜代子様へ
日本遺族会主催の慰霊友好親善訪問団(通称 遺児巡拝団)に参加巡拝されたそうで、ご苦労さまでした。
関係者の一人として私からも厚く御礼申しあげます。
遺族会から詳細な資料を貰われた事と思いますが
泉師団独歩第13連隊 連隊本部、及び第二大隊を主体に4000 名が乗船したヒ71船団 玉津丸は敵潜魚雷攻撃により安尾連隊長 連隊旗と共に海没、事後100名近くの
生存者が竹筏につかまり浮上していたと記録にあります。早期に発見救助された尾崎大尉以下10数名は本隊を追求 レイテ戦に参加全員戦死されました。
12日後 海防艦「昭南」に救助されたのは 中嶋秀次氏 浅井芳郎氏 細沢彦男氏を含む4名です。
「昭南」は台湾に寄航 皆さんは戦後それぞれ慰霊集
追悼集を自費出版されています
尚海没戦死された英霊の慰霊碑は台湾(最南端)
猫鼻岬「潮音寺」にありことしも巡拝団が訪れて
います。部隊は静岡県の郷土部隊ですので萱野さんも
静岡県下在住の方ではありませんか
更に詳しく資料などご所望ならば本ページに書き込み
下さい 私のEメールをお知らせいたします
2006年3月9日 (木) 17時26分48秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
萱野喜代子様へ
日本遺族会主催の慰霊友好親善訪問団(通称 遺児巡拝団)に参加巡拝されたそうで、ご苦労さまでした。
関係者の一人として私からも厚く御礼申しあげます。
遺族会から詳細な資料を貰われた事と思いますが
泉師団独歩第13連隊 連隊本部、及び第二大隊を主体に4000 名が乗船したヒ71船団 玉津丸は敵潜魚雷攻撃により安尾連隊長 連隊旗と共に海没、事後100名近くの
生存者が竹筏につかまり浮上していたと記録にあります。早期に発見救助された尾崎大尉以下10数名は本隊を追求 レイテ戦に参加全員戦死されました。
12日後 海防艦「昭南」に救助されたのは 中嶋秀次氏 浅井芳郎氏 細沢彦男氏をふくm
2006年3月7日 (火) 01時09分25秒
[名前] : 萱野 喜代子
[URL] :
[コメント] :
はじめまして
私の父はこの玉津丸に乗っていた一人です。先日、日本遺族会の募集で台湾・バシー海峡方面の慰霊巡拝があり参加しました。このとき頂いた資料で初めて、父が玉津丸に乗船し、戦没したことを知りました。少しでも多くのことを知りたくてこのページを開きました
2006年2月26日 (日) 20時36分19秒
[名前] : レイテ島地すべり災害
[URL] : http://ch767.sakura.ne.jp/0602222248505.jpg
[コメント] :
半年振りぐらいに書き込みます・・・レイテ島の事なので気になっていたのですが、遺族会などの窓口が見つからず何もしていませんでした。しかし数日前チャンネル桜で義援金募集のお知らせを見つけまして、僅かではありますが義援金を送りました。
2005年9月22日 (木) 15時11分20秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
明日は行けないと思います。。。スイマセン。
本当に偶然、今日仕事の関係で静岡へ行く用事が有りましたので護国神社へ行きましたら、十三連隊殉国碑の前にテントが張って有りました。九月初めには、これも仕事関係で東京方面へ出掛けたので靖国神社へ行って来ました。遊就館は立派で凄い展示品が色々ありましたが やはり自分にとっては静岡護国神社の遺品館の方が心に残る品が数沢山あります。
2005年9月20日 (火) 07時55分16秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
たーちゃん様
10日間ほど東京方面に出かけており 失礼致しました
5314部隊関係者の由 過去私も名古屋 相応寺の慰霊祭
に参拝、泉会(泉師団遺族会)にも幾度となく参加していますので 多くの方を存知上げています。
お申し出での「回顧録」は仙敷様の手書きの手記ですので 特定の方しかお持ちでないと思います。
5314部隊のレイテからの生還者5名のうち これ以外に
凍雲と椰子 長坂正一著 26p
我が歌 我が戦記 榊原 博著 69p があります
何れも短編故にコピーして送付いたしますので
ご連絡ください
Eメール shige@sakai.zaq.ne.jp
2005年9月20日 (火) 07時21分22秒
[名前] : sigematu
[URL] :
[コメント] :
2005年9月9日 (金) 18時22分19秒
[名前] : たーちゃん
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。
私の兄は泉5314部隊におりましたが、何か情報はないかとこのホームページたどり着きました。ホームページ中の重松様の蔵書に「回顧録」仙敷倉三氏がありますが、この書はどこで閲覧できるのでしょうか?教えて頂けましたら幸甚に存じます。
2005年9月9日 (金) 11時14分28秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
9月6日の投稿は、いたずらと判断し削除しました。
2005年8月26日 (金) 13時50分38秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
9月23日(金)に静岡県護国神社で第48回目の部隊慰霊祭が実施されます
戦後60年の節目の年であり慰霊祭終了後 記念遺族会を開催する予定だそうです。
重松様に教えて頂きました。
2005年8月26日 (金) 13時47分08秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
あきなか様書き込み有り難うございます。
2005年8月23日 (火) 23時04分47秒
[名前] : あきなか
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。あきなかといいます。
玉津丸についての情報、有難うございました。
私の祖父の弟君も玉津丸に乗っていて戦死されたそうです。最近、祖父の遺品を整理していたら「死亡告知書」という物を見つけました。弟君が戦死されたということは、母より聞かされていましたが、我が家では、そのことについてはタブーであり、話を聞くことはできませんでした。そんな祖父も4年前に他界しましたが、久しぶりに祖父に会えた気がします。
有難うございました。
2005年7月3日 (日) 07時17分25秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 NO 3
私ごとですが斉田連隊長は軍司令官と共に セブ→
ミンダナオと転進、 最終同島で戦死なさっていますが
昭和16年頃私の父が教官として勤務していた 熊本陸軍
教導学校の上司で我が家に再々お越し頂いたこと
鮮明に記憶しています。
関係戦記本では主だったもので下記があります。
○比島捷号作戦 陸軍航空作戦 防衛庁戦史研究所 刊
○落下傘部隊 秋本 実著 R出版
○レイテ作戦の記録 田中賢一著 原書房
○大空の華 田中賢一著 芙蓉書房
○高千穂降下部隊 田中賢一著 原書房
○大いなる賭 田中賢一著 学陽書房
○あヽ純白の花負いて田中賢一著 学陽書房
〇陸軍航空の鎮魂 航空碑奉賛会 刊
その他 大村大尉、斉藤中尉 香川准尉 鈴木報道班員
等 生還者の手記(週刊誌)10点ほどあります
以上ですが何かお申し出であれば記述お願いいたします
2005年7月2日 (土) 14時05分54秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 NO 2
ブラウエン北飛行場 白井第3連隊長の指揮する204名
ブラウエン南飛行場 第3連隊桂大尉指揮の70名
ブラウエン中飛行場 第4連隊穐田大尉指揮の36名
同日上記以外に第3連隊 第4連隊130名がドラグ 及びタクロバン地区にも降下 戦記によれば降下は成功し
熾烈な地上戦も確認されており、北飛行場は地上軍の斬り込み進撃もあり奪還占領の大戦果を上げることが
出来ました。このことに対し後に軍司令官から感状を
授与されています。
尚ブラウエン地区に降下した高千穂部隊将兵の生還者はおりません。
このブラウエン作戦も日本軍の後方兵站基地オルモック近郷に米軍が逆上陸し数日を経て急遽中止となり
転進の命に服し白井連隊長一行10数名はカンギポット
の軍司令部に1月末到着しています。
12月8日以降は逆上陸の米軍邀撃と軍司令部擁護のため
オルモック北方バレンシアに斉田連隊長含む第3連隊
第4連隊が降下 生還者はこの中の一部です
2005年7月2日 (土) 11時38分00秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃん様 No 1
改めて高千穂降下部隊の戦史を記述いたします。
特に高千穂降下部隊は、私の父の部隊戦史を追跡調査の過程で関係深い部隊故に大凡の戦記本は収集、又
関係者も存知上げています。
第2挺進団(戦時名 高千穂)団長 徳永大佐
挺進第3連隊(香取)連隊長 白井垣春少佐 他800名
挺進第4連隊(鹿島)連隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島)連隊長 新原季人中佐
上記3ケ連隊で編成
挺進第3連隊は
19.10.25 駐屯地を出発 九州日豊線川南駅から乗車
30 佐世保港から空母隼鷹に乗船出航
11.11 比島マニラに到着
12.06 第3連隊主力 レイテ島に落下傘降下
2005年6月17日 (金) 11時41分05秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
きんちゃんさんへ
先ず ご英霊に鎮魂の誠を捧げます。
叔父上は間違いなく高千穂降下部隊第3連隊(連隊長 白井垣春少佐)に属されています
この部隊は和号作戦に参戦(垣兵団の残存部隊、及び父の泉兵団独歩13連隊第3大隊とともに空陸一体のブラウエン飛行場群奪還作戦)しています
当時レイテ島には第3連隊は300名近くが降下していますが ブラウエンに降下された方で生還者はおりません
戦後 白井連隊長(レイテ島カンギポットで戦死)の陣中日誌が第4連隊斉藤中尉の手で奇跡的の持ち帰られ
当時の戦史が判明しています。 ブラウエンに降下後
飛行場守備の米軍と激戦を展開 その後白井連隊長が
掌握した将兵は12名とあります。高千穂降下部隊の
戦記本は「高千穂降下部隊」「ああ玉杯に華うけて」などあります。和歌山県の高野山に部隊慰霊碑があり
毎年9月の日曜日に慰霊祭が実施され私も ここ10年程
連続して参拝出席しています。このメールは私の父の
60年命日に当たりますので上京し靖国神社に参拝
以後東京の子供の所に滞在し メールしています。改めて自宅に帰宅後本HPに記述します
2005年6月16日 (木) 20時48分19秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
きんちゃんさんへ
書き込み有り難うございます。
私に解る筈も無いのですが重松氏の著書の中に重松大隊の戦記が書かれています。その中に昭和19年12月6日の事が書かれていましたのでこちらに載せました。
http://www.geocities.jp/tamatumaru/1944_12_6.txt
いずれ重松大隊の戦記はホームページに載せたいと思っています。
2005年6月15日 (水) 14時32分26秒
[名前] : きんちゃん
[URL] :
[コメント] :
私の叔父は、部隊はわかりませんが昭和19年12月6日ブラウエン飛行場にて戦死という知らせを受け
遺骨はないらしいです。生前の祖母の話によると落下傘から降下したまま不明との事。金田正二といいます。どなたか叔父のことを知っている方、どんなことでもよろしいので教えてください。おねがいします。
2005年6月15日 (水) 14時22分44秒
[名前] : きんちゃん
[URL] :
[コメント] :
2005年6月10日 (金) 22時11分58秒
[名前] : マミヤ
[URL] :
[コメント] :
重松様
掲示板に小生ごときに丁重なご返事を頂き誠にありがとうございます。
当時、位牌だけが入れられて家族の元へ届けられた骨壺だけが母の唯一の思い出でしたが、このページのおかげで漠然とした「兄」の当時の状況がだんだん分かりかけて来るような気がして母も大変感激しております。
なお、母の旧姓は「水野」です。
2005年6月9日 (木) 13時47分29秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
マミヤ様へ
書き込み有り難うございます。
一人でも多くの方に泉師団を知って貰い次世代に残していければ幸いです。
2005年6月7日 (火) 14時38分17秒
[名前] : 重松正一
[URL] :
[コメント] :
マミヤ様
先ずご英霊に慰霊鎮魂の誠を捧げます
お住まいが岐阜県土岐市とありますので第26師団通信隊に属されていたのではないでしょうか
海没の玉津丸他には独歩13連隊第二大隊と通信中隊
及び上記師団通信隊の一部53名が乗船 他の部隊乗船者を含めて4000名が戦死されたと言われています
尚師団通信隊主力は日野岳真隊長以下レイテ島で274名戦死 生還者は2名です
2005年6月6日 (月) 21時30分46秒
[名前] : マミヤ
[URL] :
[コメント] :
最近、母(77歳)の兄(存命なら85歳)が「泉部隊」にいて、南方へ移動中米国の潜水艦に沈められて戦死したと聞いてインターネットで探したところ本ヘ゜ーシ゛を探すことができました。本当にありがとうございました。母と一緒に泣きました。
岐阜県土岐市57歳。
2005年6月2日 (木) 20時50分16秒
[名前] : 管理人
[URL] :
[コメント] :
重松様有り難うございます。
鳥居様の想いが叶う事をお祈り致します。
2005年6月1日 (水) 17時07分57秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
本日 鳥居様あてメールしました
追って部隊名が判明すれが 属された部隊戦史は説明
できます。
最近ミンダナオ島の日本兵の件 一刻も早く救出おと
思っていましたが 何ととんでもないことで一応落着
たようですが豹兵団(30師団)の半分近くがレイテ戦に参戦しています。 この件でテレビなどで登場した平岡久様 近藤敏郎様 市川様などよく存知上げています
2005年5月30日 (月) 19時59分51秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
鳥居様へ
書き込みありがとうございます。
自分では何も解りませんので詳しい方に手紙を出しておきました。
http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/shutusei.html
↑このページの一番下の方にあります、軍歴証明書を役所から貰うのも一つの方法かと思います。。。
2005年5月29日 (日) 07時01分13秒
[名前] : 鳥居太郎
[URL] :
[コメント] :
私の父は、泉部隊に居たと聞いております。母より聞いた話ですと、レイテ島にて戦死したとの事、輸送船で亡くなったのか、上陸して亡くなつたのかよくわかりません。母も父の最期を知りたく調べましたが分からず19年前に亡くなりました。私の生きている間に父のたどった道のりと最期を知りたくもし知っている方が居られれば返信をただきたいのですが。父の名前は鳥居一雄です。メイルアドレスは********************ですよろしくお願いいてします。
2005年5月7日 (土) 11時04分23秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
☆香煙の祈り
レイテ決戦の諸英霊を追慕して
☆レイテの山河に祈る
慰霊・収骨20回の記録
この二冊を図書館に予約入れておきました。
2005年5月4日 (水) 19時17分32秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
重松様の著書のヘ゜ーシ゛の写真修整しました。それに関連することですが、今年の12月に公開される「男たちの大和」という映画の原作本を読んでいたら"速吸瀬戸"という言葉が出て来てピンと来ました 今まで玉津丸と共に沈没した船の一隻を「連吸丸」と思っていたのですが、少し検索すると・・・・やはり「速吸丸」でした(今まで失礼しました)。地名等も場所も解らず(少々は調べていますが・・・)載せていますので間違いが有りましたらご指摘お願い致します。
2005年4月22日 (金) 18時02分20秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
tさん、書き込みありがとうございます。
自分ももっと色々調べてみます。
2005年4月20日 (水) 00時10分36秒
[名前] : t
[URL] :
[コメント] :
はじめまして。こんなこといままで、全く今まで知りませんでした。関係書籍読もうと思います。
2005年4月13日 (水) 22時51分36秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
今までのメッセーシ゛はホームヘ゜ーシ゛の「過去の掲示板」から見る事が出来ます。
独立歩兵第十三聯隊(泉五三一六部隊)の御遺族、関係者の方がご覧になっていましたら是非書き込んでいって下さい。お願い致します。
2005年4月13日 (水) 22時29分42秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
重松様へ
ありがとうございます。
2005年4月12日 (火) 11時17分57秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
大叔父様がバシー海峡で戦死なされたこと 改めて
慰霊の誠を捧げます
私の追悼集の写真を掲載されるとのこと どうぞ利用なさってください。主だったもので
☆写真集レイテの山河に祈る
☆泉
★レイテの山河に祈る 慰霊ご収骨20回の記録
★慰霊の歩み
☆印 静岡中央図書館にあり
★印 国会図書館などにあります
尚 独歩13連隊を含む泉師団全体の戦史の本は市販本では
○レイテ涙雨 中日新聞社出版
○レイテ作戦の記録 田中賢一著 などがあります
それ以外に「レイテ戦記 大岡昇平著」をはじめ多くの
市販本 生還者及び関係者が自著 自費出版した追悼集 回顧録に記述があります(父の属した第3大隊だけで
34冊) 私の[レイテ文庫]は現在414冊蔵書
Eメールは ********************
2005年4月10日 (日) 16時25分29秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
重松様の著書から写真2枚と、まだ全然書けてないのですが蔵書の一部(泉師団及び遺族関連)を掲載します。何か不都合な点がございましたらご一報下さい。
2005年3月31日 (木) 17時52分41秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
静岡市に用事があったのでアト゛ハ゛イスして頂いた護国神社に行って来ました。桜の花も少し咲き始めていてタイミンク゛がいいな~なんて思っていたんですが、しかし・・・お目当ての物は見つかりませんでした。遺品館の奥の方で長い事探して貰ったんですが「見当たりません~」との事、何故なんだ??自分の説明が悪かったのかな??残念・・・
でも久し振りに護国神社に行って、もやもやが消えたと言うか清々しい気分になりました。写真(ヒ゛テ゛オ)も撮って来たので暇を見付けてこのヘ゜ーシ゛に載せたいと思います。
改めて
齋藤様書き込みありがとうございます。
2005年3月25日 (金) 21時31分20秒
[名前] : 齋藤 誠
[URL] : ********************
[コメント] :
泉5316部隊最後の連隊長を務めた齋藤二郎の次男です。関連図書のページで、昭和33年発行の「泉」を捜索中とありますが、小生の手元に1冊あります。泉5316会現会長の石神節氏(静岡市在住)あるいは既に書き込みをされている重松正一氏(堺市在住)のところにもあると信じています。
HPを持っていないので、URLはありませんが、EメールアドレスをURLの項目に記入しました。
繰り返すと********************です。
2005年3月25日 (金) 21時15分49秒
[名前] : 齋藤 誠
[URL] : ********************
[コメント] :
2005年3月14日 (月) 21時01分28秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
重松 正一様へ
断りも無くホームヘ゜ーシ゛に御名前を載せてしまい、すいませんでした。
重松様は勿論の事、誰からも許可を得ていませんでしたので、それが大変気掛かりでした。
泉5316部隊の事を何も知らないのに、このようなホームヘ゜ーシ゛を作ってしまい恥かしい限りです。
尚本HPのこと関係者に教示しているところです。
自分が最初にすべき事なのに・・・
重松様をはじめ全ての関係者様のご意見に添えるように致しますので、こんな場所で大変失礼では有りますが、ご意見等を教えて頂けると幸いです。
書き込み有り難うございました。
2005年3月14日 (月) 20時30分29秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
古池 甚様へ
書き込み有り難うございます。
本当に嬉しいです。
諸先輩方が残してくれた記録(本)を探して、その中の印象に残る部分だけを書き写しているだけですので偏ったホームヘ゜ーシ゛になっていると思います、すいません・・・出来れば全頁を書き写したいのですが色々あると思いこんな形になってしまいました。
私の大叔父は昭和15年12月入隊で19年8月玉津丸と共に海没したそうです。
大陸で大叔父と共に日本の為に戦ってこられた古池様に感謝致します。
季節の変わり目ですので御身体をお大事に、これからも御元気でいて下さい。
本当に有り難うございました。
2005年3月14日 (月) 09時38分30秒
[名前] : 重松 正一
[URL] :
[コメント] :
関係者として独歩第13聯隊(泉5316部隊)の戦史を
掲載していただき誠にありがとうございます。
同部隊は静岡県の郷土部隊で その縁から昭和33年9月
静岡県護国神社境内に慰霊碑が建立され、今年も秋の
彼岸の中日に48回目の慰霊祭が実施されます。
部隊が参戦したフイリピン レイテ島には第1大隊、第2大隊の玉砕地パラナス、タリサヤン 第3大隊の激戦地
ブラウエン南飛行場跡地に慰霊碑があります。
(泉会ではこれ以外に3ケ所建立)
戦後営々として父の属した部隊戦史を追跡調査、その
過程でレイテ関連の戦記本も収集 現在400冊を超える
蔵書があります。部隊将兵の慰霊鎮魂に尽くすべき
リタイアして5年 遅まきながら毎年現地へ巡拝しています。尚本HPのこと関係者に教示しているところです。
2005年3月13日 (日) 17時24分28秒
[名前] : 古池 甚
[URL] :
[コメント] :
私は、昭和18年に平地泉にあつた『西捜索連隊』に入隊、6月同連隊の解散。30数名の小隊で泉兵団、大同駐屯地に編入、乗馬小隊を編成、その一員として18年12月の「渾源」移動に参加。19年正月兵器学校入学のため除隊しました。18年の二つの作戦に参加しました。
同年兵ほとんど戦死。寂しく、この記録しみじみ見ています。
2005年2月28日 (月) 23時18分13秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
今日チャンネル桜に出演していた水中カメラマン坪本公一氏の活動がもっと大きな動きになり、科学技術が発展すればもっと深い所に沈んでいる船も撮影出来るんだろうなー・・・
まー民間がやるよりも、国を守る為に死んでいったのだから国が動くべきだと思うけど!
2005年2月18日 (金) 20時35分41秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
浅井芳郎氏の悲しみの海峡 : バシー海峡十二日間の漂流の画像だけ関係書籍に追加しました。
2005年2月11日 (金) 05時43分06秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
ど~すれば見やすくなるか試行錯誤・・・
【書名】悲しみの海峡 : バシー海峡十二日間の漂流
【著者】浅井芳郎
現在この本を静岡市立図書館から借りる為申し込み中
2005年1月28日 (金) 19時50分39秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
ゲバラの本半分ぐらい読んだ。結構面白い! 他に読んでいる本があるので中々進まないが大東亜戦争関連の本に比べたら凄く読みやすい。。
ホームヘ゜ーシ゛の方は何だかク゛シ゛ャク゛シ゛ャになって来てしまった・・・主に変更した所はトッフ゜ヘ゜ーシ゛の自分の身内に関する所(削除)と、中嶋秀次氏の歌集の全画像(削除)、それから新しく聯隊史に関する事を追加しました。何だか本を紹介するページになって来てしまったような・・・ま~いいか十三聯隊の事を纏めているヘ゜ーシ゛無いし・・・
2005年1月18日 (火) 12時41分34秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
トッフ゜ヘ゜ーシ゛の文章を一部変更しました。
2005年1月14日 (金) 20時24分13秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
FPさん書き込みど~もです。
ホームヘ゜ーシ゛見に行きましたよ(*^_^*)
以前からゲバラの名前だけは聞いた事がありましたが
詳しくは知りませんでした・・・
これも何かの縁なので本を注文しちゃいました。
チェ・ゲバラの遥かな旅560円(税込)安かったので
勉強ちゃんとして下さいね♪それでは。
2005年1月13日 (木) 22時23分22秒
[名前] : FP
[URL] :
[コメント] :
初めてこの海峡を知りました。これからこのサイトが多くの人に見られることを望みます。
私のサイトもよろしくお願いします。m(__)m
http://faanpe.hp.infoseek.co.jp/fap.html
2004年12月28日 (火) 05時04分48秒
[名前] : さ
[URL] :
[コメント] :
サンシさん書き込み有り難うございます。
貴方の様な若者がいる事に凄く感動しました。
しかも自衛官と言う事は、これからの日本を背負って立つ大切な仕事です。
今後、紛争地域への派遣あるいは自国を守る危険な任務に就く事も十分あると思いますが、誇りを持って頑張って下さいね。
サンシさんのこれからの御活躍を陰ながら応援して行きたいと思います。それでは。
2004年12月26日 (日) 22時18分07秒
[名前] : サンシ
[URL] :
[コメント] :
初めまして、サンシと申します。
私は現在17歳で少年自衛官ってのをやってる身分
です。
最近隊の研修で硫黄島の戦跡を見学しにいってから
こういう、知られざる、しかし残さなければならない
戦史を調べています。
玉津丸については今読ませていただきましたが、
これも是非誰かが知って後世に残さなければなら
ない歴史だと感じます。
ページでの活動頑張ってください。
2004年11月30日 (火) 08時15分11秒
[名前] :
[URL] :
[コメント] :
何でも書いて行って下さい。
それから
もし独立歩兵第十三聯隊(泉五三一六部隊)の御遺族、関係者の方がご覧になっていましたら是非書き込んでいって下さい。お願い致します。